文/河北省の大法弟子
【明慧日本2024年10月10日】私は、病気治療のために大法を学び始めたのです。当時30代前半の私は、3階まで上るにも途中で一息入れなければならないほど、病気に苦しんでいました。
1997年6月中旬、私は偶然にも大法の書籍『轉法輪』に出会いました。本を読んで独学しているうちに、いつの間にか体が青年の状態に戻り、大法の貴重さを身をもって感じました。私はずっと自宅で1人で本を読んで煉功し、煉功点に行ったのは一度だけで、同修たちと一緒に煉功する勇気はありませんでした。邪悪が激しく迫害していた時も、私はいつも通りに法を学び、修煉を続けていて、大法のために訴え、真実を明らかにしようとは思いつきませんでした。この状態は2003年まで続いていました。その時、私が知っていた2人の同修のうちの1人が師父の経文や大法に関する情報を届けにきてくれて、私はやっと、大法を守っている同修がまだ多くいることを知りました。
この同修は定期的に師父の経文や関連情報を届けてくれました。そうして貰っているうちに、私は申し訳なく思い、自分で資料を作成するか、または同修のために資料を作成したいとの思いが芽生えました。ちょうどその頃、その同修から「今までは資料の原稿をよそから取り寄せていて、非常に不便でした。私たち自身で作りましょうか?」と聞かれて、私はすぐに承諾しました。同修の助けを借りて、私はインターネットからのダウンロード、編集、印刷方法を学び、毎週ネットカフェで資料をダウンロードしてから印刷し、30キロも離れたところまで原稿を届けるという役割を担い、それが2年間続きました。その間、濃霧の夜に道に迷ったり、寒風で目が開けられなかったり、雪が降ったあとバイクのタイヤが滑って転倒しそうになったときもあれば、バイクが障害物にぶつかり、一瞬の間違った念で重々しく地面に投げ出され、顔を3カ所擦りむいて出血しましたが、後ろに乗っていた同修は軽やかに着地し、数メートル先まで飛んでいたバイクは、エンジンがまだかかっているときもありました。思えば、当時危険に直面したときの最初の念は「やばい」であって、顔が地面に触れる瞬間に思ったのは「法は乾坤を正し、邪悪を全滅する」。[1]で、正念があるように見えますが、実際には怪我を恐れる心が潜んでいました。
師父は「修煉の事と言うなら 心の中の執着を取り除くべし 切り捨てることは本当の自己には非ず それらすべて迷い中の痴」。[2]とおっしゃっています。そこで私が悟ったのは、すべての溺れる心や妄想は、長い間形成された自分を守ろうとする人間の念なのです。大法の中でこれらの人間の観念を洗い流し、自分を縛り付ける重荷を手放し、圓満成就して師父に随って戻ることこそが、大法弟子の正念なのです。
一、人間の念を取り除き、仕事での対立が解消された
私は仕事においては真面目で責任感を持って取り組んでいますが、世俗の利益争いの中で、面子を重んじる私は、しばしば根拠のない誹謗や罵倒に直面します。周りの人々は同情を示してくれて、私は自分が修煉者であることを自覚し、耐えるしかないと考えました。しかし、振る舞いや人との接し方が正しい自分が、なぜいつも侮辱を受ける羽目になるのか? と思い、どうしても納得できませんでした。常人の恨みを抱えながらなんとか耐えていく中で、対立はますます深刻になっていきました。そしてある日、同修と交流する中で、私はやっとこれが自分の心性を高めるための試練であることに気づき、その瞬間、旧勢力に利用されている世人が可哀想に思い、恨みが同情に変わり、さらに世人に対する慈悲心が生まれました。
こうして、私が人間の念を取り除いた後、半年以上続いていた対立が、世人が不思議がっている中で解消され、私の仕事に対していろいろと粗捜しをしていた相手も理解を示し、支持するように変わったのです。
二、人間の念を取り除いてから妻が大法に賛同するようになり、家庭がより円満になった
2003年に私が同修と接触し、大法を実証する活動に参加し始めてから、妻はますます恐れ、あらゆる関係を利用して私に圧力をかけ、父母や兄弟までもが喧嘩や罵り、絶縁を持って私を脅し、修煉を阻もうとしました。私はど根性で大法を選び、孤立の中で心を静めて学法し、正念も発し、押しつけられたあらゆる迫害の要因を解体することに専念しました。学法を続けていくうちに、妻や姑の愚痴を聞くとすぐにイライラして心が揺さぶられる状態から、私は「彼女たちのことを気にすればするほど、彼女たちが旧勢力に利用されやすくなる」と悟りました。
師父は「一つの心も動じなければ、すべての動きを制することができるのです」。[3]とおっしゃっています。私は心を落ち着かせて、彼女たちが愚痴を言うのをパフォーマンスと見なし、楽しみながら鑑賞するようにしてから、私を苦しめていた恨みが消えました。そして彼女たちのことを意識しないようにしてから、いつの間にか彼女たちも愚痴を言わなくなりました。今では、妻も姑も『轉法輪』を読んでいて、10歳の娘も頻繁に学法をしており、まるで大法のこども学習者のようです。何か美味しいものがあると、彼女たちはまず師父にお供えをして、線香を上げるようにしています。彼女たちが大法に同化していく縁のある人だと思うと、安堵の気持ちを覚えました。
三、人間の念を取り除いて情から抜け出し、同修への嫉妬を手放した
異性に対して全く興味を示さない自分は、色欲の心がないと思っていました。しかし、ハンサムな同性がいると、ついつい目が行ってしまい、相手の気を引こうと無意識的に自分をアピールすることもよくありました。このおかしい観念に悩まされて、生活に余計な煩わしさをもたらしていました。同修と交流する際、自分の意見が正しいと思い込み、認められないときは、師父の「一人一人の精華の気がみな違うので、同じ次元のものを持つ人は一万人に二人ぐらいです」。[4]という説法を引き合いに出して、違う次元にいるのだから悟り方も違うと自己弁護していました。また、交流において、みながそれぞれ違う次元にいるため、自分の認識を述べればよく、全体との協調性を取る必要がないと頑なに考えていました。実は、この偏った考えの背後には嫉妬心が隠れていて、私はそれを手放そうとせず、その過程を楽しんでさえいました。それが一種の思想業でもあると悟りました。
これらの変異した考えが出てきた時、私はそれを排除せず、抵抗しませんでした。主意識が弱いからだと思います。実は手放していない執着が現れてきたとき、それを取り除く絶好のチャンスです。師父は「しかしひとたび思想業が現われてきた時に、それに打ち勝つことができるかどうかは、本人次第です。動揺しない人なら、業を消すことができます」。[4]とおっしゃっています。私は通勤時間を利用して法を暗記し、帰宅後もまっさきに学法しています。主に『轉法輪』の中の「嫉妬心」、「主意識を強くもつべし」、「心を正しくもつべし」、「歓喜心」を繰り返し学び、今でも通勤中に暗記を続けています。その結果、心の中で感じていた無力感とモヤモヤした気持ちが和らぎ、大法弟子としての光栄を再び強く感じました。迷いの中にいる世人を目覚めさせ、迫害の実態をはっきりと伝えていくことに専念できて、初めて慈悲ある大法弟子と言えると考えています。
四、人心を取り除いてから法理が見えるようになった
私たちの学法グループは週に2回、同修の家で学法しています。私は暑さが苦手で、普段はエアコンの効いた部屋で過ごしていますが、同修の家にはエアコンも扇風機もなく、ドアも閉めきった状態なので「こんなに暑くてどうやって学法するのだ?」と、汗が止まらない中で、私は思わずそう考えました。苦を嘗めるのは良いことだと知りつつも、心に生じた同修に対する怨む気持ちを抑えきれませんでした。他の同修は何も言わないのを見て、私は暑さに耐えながら人心で同修を測り「どうして良い学法環境を整えないのか?」と考えました。「修煉者としては、常人の基準で自分を律してはなりません」。[4]、「足が痛くなるとすぐ崩し、少し動かしてからまた坐禅をやり直すような人の場合は、何の効果もないと言っています。站樁をする時、腕が疲れてくると、我慢できなくなって、下ろしてしまう人がいますが、それでは全然効果がありません。これぐらいの苦痛が何だというのですか?」。[4]
エアコンは常人の対策です。蒸し暑さは常人には作用しますが、真の修煉者に何の影響を与えるのでしょうか? 常人の状態にとらわれていると、確かに蒸し暑さはリアルに感じます。しかし、人間の観念を捨て、同修に対する怨みを手放すと、心が清らかになり、背中に涼しい感覚が得られ、それほど暑く感じなくなりました。蒸し暑い感覚から抜け出した瞬間、私は人間から神の状態に入ったのだと気づきました。神は世間の理に縛られることはありません。
五、人間の念を取り除いてから、万物に霊性があることが顕現された
ある日、職場でハエが飛び回っていて、いくら追い払っても近くに寄ってきます。最初は数匹を殺しましたが、奇妙なことに、ハエ叩きを使わずに紙で打ち落としてもすぐに死んでしまうのです。まるで死にたいかのようでした。「私の世界にこんなにたくさんのハエがいては困る」と考えた途端、ふと、師父の「万物にはみな霊がある」との説法を思い出しました。「宇宙におけるいかなる物質も、宇宙に立ち込めるあらゆる物質も含めて、みな霊的なものであり、みな思想を持っており、みな宇宙の法の異なる次元における存在の形態です」。[4] 私は心の中でハエたちにこう話しかけました。「大法弟子の目の前に来たのも縁だ。『法輪大法は素晴らしい! 真・善・忍は素晴らしい!』と覚えれば、今生もむだではない。大法と良い縁を結んで福報を得てね」。そう考えると、ハエたちは本当に飛び去っていきました。
この一件に啓発されて、屋外で学法するとき、ハエが体にまとわりつき、かゆくて集中できなくなれば、私は「法輪大法は素晴らしい!」とハエに言ってみました。しかし効果がなく、正念を発してもハエは飛んでいきませんでした。内に向けて探して気づいたのですが、かゆみや不快感は人間の感覚ではありませんか? 神であれば、そのような感覚を持つことはありません。そこから私は学法に専念し、かゆみを感じないように努めました。すると、いつの間にかハエが私にまとわりつかなくなり、大法弟子の正念に満ちる場が全ての不正を正すことができると実感しました。
修煉の中で無力感や迷いを感じたり、前に進むのが難しいと感じたとき、それはまさに私たちが人間の念から抜け出すべき時です。人間の念を多く取り除けば取り除くほど、より多くの法理が見え、私たちも生命の次元の昇華を得ているのです。どうか同修の皆さんも人間の念を取り除き、どんな観念にも囚われることなく法に同化していき、真の私たちが持つ純粋な一念「法を正す師に手伝い、衆生を救おう」という念を呼び覚ましましょう。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「正念を発する時の二種類の手印」
[2] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「執着を取り除く」
[3] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「最後の執着を取り除こう」
[4] 李洪志師父の著作:『轉法輪』