文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年10月16日】私は、毎日4つの決まった時間に発正念を行っています。こちらの世界では身体を座禅の姿勢にし、目を閉じて静かにすると、もう一つの空間にいる身体の目が自然に開きます。周囲を見渡すと、私の両側には数え切れないほどの騎馬武将が整列しており、背後にも無数の兵士が控え、皆が厳粛な表情で前方を見つめていました。その場は威厳に満ち、非常に厳粛な空気が漂っていました。私は大将の装いをしており、耳元で「主将が戻った!」という声が聞こえてきました。すると、全ての武将が前に身を乗り出し、突撃の姿勢を取っていました。空を見上げると、そこには多くの神や、私の世界の一部の衆生(強力な法力を持つ覚者たち)が、光に満ちた威厳ある姿で現れ、彼らもまた号令を待っていました。彼らは、共に神通力を駆使して法を正す準備が整っているのです。
私がこちらの世界で手を立てて発正念を行うと、もう一つの空間にいる神々や武将たちは号令を受け、邪悪に向かって突撃を開始しました。私はもう一つの空間で身体を操り、戦いを指揮し、千軍万馬を率いて前進しました。邪悪を次々に打ち砕いていき、時には神通力を使って邪悪を消滅させ、次々と勝利を収めました。
しかし、時折、私は発正念を数分で終えてしまうことがあります。そうすると、もう一つの空間にいる身体も動かなくなり、戦場では「主将が去った!」という声が響き渡ります。神々や武将たちは戦意を失い、戦闘は中途半端な形で終わってしまいます。
毎回発正念を行うたびに、もう一つの空間では書記官が戦場の様子を詳細に記録しています。「〇年〇月〇日、主将が軍を率いて邪悪を討伐し、何人を倒した」「〇年〇月〇日、主将が現れず、わが軍は何人負傷した」「〇年〇月〇日、主将が戦闘中に離脱し、戦いは中断された」といった具合に、非常に細かく記録が残されているのです。
集団学法について
大法弟子が集団学法を行う際、2~3人でも5~6人でも、もう一つの空間ではそれが法を広める盛大な集会となります。大法弟子時間を決めて学法すると、各界の佛道神たちは「〇年〇月〇日、法会が開かれる」と伝え合い、いたる場所から集まってきます。学法が始まると、別の空間では神佛が一堂に集まり、大法弟子を囲んで何重にも座ります。内側には、偉大な覚者たちが佛や神の姿で、座禅をしながら真剣に法を聞いています。外側には、あまり高いレベルに達していない者や、機会が十分でない者が、跪くか伏して法を聞いています。
心を落ち着かせて、真剣に法を読む大法弟子は円の内側に座り、一方で、心が浮ついて真剣に学法していない者は、外側の遠い場所に座ります。しかし、心を静め、しっかりと学法を行うことで、外側から内側へと移動していくことができます。
もし大法弟子が集中せずに法を読み間違えたり、文字を飛ばしたりすると、集会に参加している神佛たちは目を開いて大法弟子を見つめます。正しく読まれるまで見続け、間違いが正されると再び目を閉じて法を聞き始めます。落ち着いている大法弟子は、法の内包する深い意味を読み取ることができ、その時、別の空間では言葉で表現できないほど美しい光景が現れます。時には無数の美しい花が学法の場に咲き誇り、また時にはオーロラのような光が波打つように広がります。その光景は、学法の場を取り囲む無数の法輪と共に、神佛たちが感嘆するほどの美しさです。
また、『洪吟』を読む際には、空いっぱいに神佛たちが大法弟子と共に詩を朗読し、その声は全宇宙に響き渡り、非常に荘厳で心を震わせるものです。
昨日、集団学法で『轉法輪』を読んでいる時、私は突然、本が非常に重く感じられました。天目で見ると、学法の場の上空には、別の空間にある文字が浮かび上がっていました。その文字の中には、甲骨文字に似たものや、三星堆遺跡から発掘された文字に似たもの、さらにはもっと複雑であったり、逆にシンプルな文字もありました。これらの文字は、一つの文明のものではなく、さまざまな歴史や文化に属するものでした。
この光景を見て、私は師父の『論語』を思い出しました。私はこう悟りました。大法は、異なる空間において異なる文化や言語を通してその内包を示し、それによって様々な世界の衆生に機会を与え、すべての世界を円満にしているのです。師父は、あらゆる衆生に対して慈悲深いのです。
灌頂について
修煉を始めて以来、何度も師父が私に灌頂をしてくださるのを感じました。頭のてっぺんから足の裏まで一気に熱い流れが通り抜けるのです。
ある日、第三式功法を煉功している時、天目で自分の身体が上下に通った一本の空洞のように見え、先が見えないほど長く伸びていました。さらに良く見てみると、空洞の壁には幾重にも重なる佛道神の姿があり、彼らは私の身体、小宇宙内の生命であることに気付きました。その瞬間、また頭から足まで通り抜ける熱い流れを感じ、師父が再び灌頂をしてくださっていると悟りました。
この時、天目で見た光景は、突然、一番高い場所から白い光が空洞に沿ってゆっくりと差し込んできたのです。すべての神佛が合掌し、上を向いて跪きました。その白い光の中で、師父がゆっくりと降臨してくるのを見ました。灌頂のエネルギー、それは師父の功であり、師父の像そのものです。師父が私の宇宙に直接来てくださり、私を浄化してくださっているのだと理解しました。無限の感動と畏敬、そして自分の至らなさへの自責や恥ずかしさなど、言葉では表現しきれない感情が一気に押し寄せました。
怒りについて
同修と日常生活の中で怒ってしまうことについて交流していた時、天目である光景を見ました。修煉者が怒りを爆発させた瞬間、周囲の空間に2~3つの曇った灰色の影が現れ、それが修煉者の体内に一気に入り込みました。その瞬間、修煉者はさらに激しく怒り、時には間違った行動をしてしまいます。そして、灰色の影が体から離れた時、修煉者は突然、後悔や自責の念に駆られます。
私はこのことから、怒りが生じる時、それは負の生命が影響を及ぼしているのであり、時には身体や思考を支配しているのだと悟りました。
再び修煉し始めることについて
ある日、長年学法していなかった2人の昔の同修と一緒に、もう一度『轉法輪』を読み始めることになりました。学法中、天目で見た光景があります。
1人目の同修の世界は、多くの場所が崩壊し、人がほとんどおらず、荒れ果てた景色が広がっていました。しかし、学法を進めるにつれて、その崩壊した土地がまるで映像の逆再生のように修復され、元は何もなかった場所に山や川の美しい景色が少しずつ現れてきました。彼女の世界は徐々に再生されていきましたが、そこに住む生命が増えていく様子は見えませんでした。このことから、私は悟りました。学法や修煉を怠ると、自分の宇宙の中に存在する多くの生命が本当に淘汰され、永遠に消失してしまうのかもしれない、と。
もう一人の同修は、早い段階から学法をしており、基礎もしっかりしている人でした。天目で見ると、彼は別の空間で石の仏像のような姿をしていました。まるで楽山大仏のような巨大な仏像でしたが、何かに封印されたように全く動かない状態でした。ところが、学法を進めるにつれて、仏像の頭や体から石の破片が少しずつ落ち始め、体が次第に柔らかくなり、仏像が生き生きとして動き始め、神聖な姿へと変わっていきました。
私たちに残された時間は多くありません。本当にこの佛が再び神聖な姿を取り戻し、天体が繁栄を取り戻せるかどうかは、彼らが修煉を続けるかどうかにかかっています。昔の同修たちが一日も早く修煉の道に戻ってきてくれることを願っています。
以上は、私が天目を通じて見た限られた内容であり、私自身の修煉の状態に基づいた個人的な悟りです。同修の皆さんと交流するために記しました。