【明慧日本2024年10月17日】大法の音楽である「普度」、「済世」がとても素晴らしいことは誰もが知っています。何度も聞いても私は本当に飽きません。
しかし、数年前、ある同修が亡くなり、葬式でお坊さんの法事が終わた後、修煉者たちは道家の音楽を流しては良くないと思いました。みんなが話し合いした結果、「普度」、「済世」を流すことになりました。当時はとても神聖に聞こえました。
しかし、家に帰ってからは、なぜか「普度」、「済世」を聞きたくなくなりました。なぜなら、聞くとすぐに上記のシーンを思い出したからです。私は自分の考えをはっきりと表現することができず、同修たちに伝えるのが恥ずかしく、また同修たちに笑われるのを恐れてあえて言いませんでした。
師父はこう説かれました。「肝心なのは、皆さんが『普度』の内涵を本当に理解できていないことです」(『音楽と美術創作会での説法』「音楽創作会での説法」)
弟子:『普度』『済世』は一章として作品の中に入れてもよいのでしょうか?
師:『普度』『済世』ですが、先ほど話した一つ目のことはつまりこのことです。版権の問題はありません。皆さんが煉功用に使う二つの音楽を使ってはいけないのですが、他は全部使ってよいのです。皆さんが必要なときに使うためのものなので、問題はありません。煉功音楽は絶対使ってはいけません。なぜならば、修煉に非常に大きく関わっているため、音楽に使われてはいけません。他の音楽は大法弟子が作ったものですが、なんと言っても常人に残すためのものです。『普度』『済世』についてですが、この二つの音楽がどういう内涵を表現しているのかを知っていなければなりません。宇宙を卵に入れてはいけません。(『音楽と美術創作会での説法』「音楽創作会での説法」)
ご参考までに、私はただ善意に同修と切磋琢磨したいだけです。ありがとうございます。