文/台湾の大法弟子
【明慧日本2024年10月17日】私が住んでいる県では、毎月グループで法を学び、体験を交流する会があります。今月のグループでの学法に参加した後、共有したい考えや経験がいくつかありました。適当でないところがあれば、同修の慈悲なる指摘をお願いします。
長い間、地元のグループ学法では、発言する修煉者はほとんどいませんでした。以前、私はなぜ彼らは意見交換を嫌がるのかと憤慨することがよくありました。師父は『轉法輪』「第三講」の中にこう説かれたではないでしょうか。「また、座談会の形で、互いに交流したり、体験談を話したりしてもよいのです。このようにすることは望ましいことです」。同修たちはどうして師父の法に従わないのでしょうか? しかし、今回は、同じことが起きても、それほど動揺しないことに気付きました。ネガティブな考えが浮かぶと、すぐにそれを排除し、落ち着いて平穏な気持ちでいられました。
その日の勉強会が終わる前に、建物の管理事務所の人が、私たちがあまりに大きな音で読んでいて、他の住人の迷惑になっていると言いました。私はすぐに、法に基づいていない考えなどがあったか内に向けて探しました。
法の勉強を終えて、私が自分の体験を話した時、ある同修が私の傲慢さを指摘しました。私は落ち着いて、何も言い返しませんでした。同時に、私は本当に彼の言った通りに行動しているだろうかと考えてみました。私は自慢するつもりはなかったのに、なぜ他の人は私が自慢していると思ったのでしょうか? 私は、自分が気づいていない考えがあるのかもしれないと自分に言い聞かせ、今後は自分の言葉と行動にもっと注意を払うように自分に言い聞かせました。いかなるトラブルにおいても、私たちは必ず大法を基準とし、まず自分の内側を見なければなりません。
最近、師父の新経文『目覚めなさい』を書き写したことで、考え方が格段に良くなり、生まれ変わったような気分です。
師父はこう説かれました。
「慈悲は常人社会では善意と愛の心として体現されています。これも大法弟子の内面から滲み出た生命の状態です」(『目覚めなさい』)
私が理解する慈悲とは、同修であろうと普通の人であろうと、すべての命は平等であり、純粋で無私の慈悲の心を持ち、思いやりを持ち、状況を理解しようと努めなければならないということです。
ここ数年、私は明慧ラジオを聞いてきました。同修の体験は私の正念を強め、修煉への自信を増してくれました。彼らの献身的な献身に感謝しています。
法輪功を修煉し始めて11年になりますが、私はまだ『轉法輪』で師父が言及されている「顕示心理」(第六講)「嫉妬心」(第七講)「闘争心」(第七講)「歓喜心」(第八講)などの人間の欲望を持っていることに気づきました。これからは落ち着いて目標に向き合い、執着心をなくし、自分を向上させていきます。私の最大の願いは、師父と一緒に家に帰ることです。