文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年10月20日】私は、1998年に法輪功を学び始めた学習者です。修煉を始めた頃は興奮して、時間があれば法を学びましたが、どうすれば法をより良く学べるかが分かりませんでした。学法をしている時、ひどい妨害を受け、文字を目で追い、口では読んでいますが、しかし心は法に集中しておらず、よく他のことを考えていました。それが妨害や人心の強い現われだとは気づいていませんでした。学法していても形式にとどまり、真に法を得ていなかったのです。
刑務所での迫害を経験した後、私はこのままではいけないと気付き、学法は本当に心を込めて学び、自分に何かを得させるものでなければならず、学法と修煉の中で真に向上することが必要だと感じました。
では、どうすればいいのでしょうか? 学法を妨害され、他のことを考えてしまうのであれば、いっそのこと法を暗記しようと思いました。私は無理にでも法を覚え、脳裏に法を入れるように努めました。こうすることで、妨害してくるものに打ち勝ち、それらを取り除くことができるはずです。『轉法輪』の300ページ以上ある内容を、いつ終わるかは気にせずに暗記し始めました。同修の中には「法を暗記するには時間がかかりすぎる。法を正すのが終わってしまったらどうするんだ」と言う人もいましたが、私は暗記すれば必ず何かを得られると思いました。暗記しなければ何も得られないし、いつ終わるかは気にせず、とにかく自分をしっかり修めることが大切だと感じました。修煉をきちんと行わなければ、終わっても何の意味もありません。法を暗記し、法に同化してこそ、自分の中に本当に法を得ることができるのです!
最初に法を暗記し始めたときは、本当に大変でした。心の奥底に厚い邪念の壁があり、それが邪魔していると感じました。一つの文字、一つの言葉を正しく暗記したと、かすかに感じる程度でしたので、全精力を集中させ、すべての注意力を法の一文一文に注ぎ、妨害や思想業を排除しようと努めました。時には、たった一段落の法を何時間もかけて覚えることもありましたが、私はそれが意志力を試される時であり、また自身の中のよくない生命を取り除く過程だと理解していました。私は気を緩めることなく、いつ暗記できるかは問題とせず、とにかく覚えればいいと思いました。調子が良い時は、一日に2、3ページ暗記できることもあり、調子がよくない時は一日に1、2段落しか進まないこともありました。こうなっても私は少ないとは思いませんでした。そうして私は、法を暗記する道を一歩一歩進んでいったのです。
私が暗記する量が少ないのは、恐らく自分の思想業やその他の業力が大きいからだと思います。しかし、どうであれ、暗記し続けることで初めて本当に法を得ることができるのだと感じています。自分に対して、必ずこれだけ覚えるという目標は設定していません。実際、法を暗記するのはとても疲れる時もあり、本当に正と邪が戦っているような感覚があります。どうであれ続けることが大切で、一段落でも暗記できればそれでいいのです。家で暗記する時はまだ少し楽ですが、時には出稼ぎに出る時や、集団宿舎で生活している時など、環境が騒がしく、食後にみんながトランプをしたりお喋りしたりしているので、妨害が大きく、その場合はさらに暗記が遅くなります。それでも、続けるしかありません。続けることで、必ず法に溶け込むことができるのです。
私は丸一年かけて、ようやく『轉法輪』を一通り暗記し終えました。その時、まるで大きな山を越えたような感覚があり、ついにその道を歩き切ったと感じました。同時に、もう一つ強く感じたことがあります。最初に暗記を始めた時、心の中はかすかに静寂を感じ、一つの文字、一つの言葉を確認するのにとても大変でした。阻止が非常に強かったのです。しかし、最後の数ページに差し掛かると、暗記している際に微妙な震動を感じるようになりました。これは、自分が法に同化している一面が力を発揮し、同時に邪悪による阻止や妨害を打ち破っていることを示していると私は理解しています。
これらの体験を通して、私は法を暗記する信念がさらに強くなり、続けて2回目の暗記を始めました。しかし、再び暗記を始めた時には、以前暗記した法をほとんど忘れてしまっていました。それは自分の法に同化した部分が切り離されたことによるものだと理解していました。私は以前のように家にいる時も、出稼ぎに出る時も、できるだけ多く暗記し、同時に機会を利用して人々に法輪功の素晴らしさを伝えています。
2回目の暗記を終えた時、最初の時よりもさらに強い感覚があり、法を暗記しているときの内在的な震えが話をしているかのようにすごく強く感じました。私は、法を暗記することが、法を得るための金色に輝く大道であると感じています。また通読する時には、文字の表面がますます実感できるようになり、心も静かになりました。
法を暗唱する以外に、母と一緒に学法する時は通読しています。暗記を通じて私は、学法は法を覚え、法により多く同化するためのものであると理解しました。そのため、学法は心に入り込むことを主とすべきです。私は、学法する時の心の静けさの度合いによって、法が心に入り込む量も異なることに気づきました。学法中に雑念や考え事があったり、心が法に向いていない場合、それは学んだことにはならず、ただ形式を終えただけです。法の暗記や書き写すことは、心に法を入れる最良の方法です。
そこで、通読する際、以前の普通の読み方からゆっくりと読むように変えました。一字一句をはっきりと、雑念なしで読めるように心がけています。文字をしっかりと頭に刻み、心に深く入るほど良いのです。読むときには、口で読む文字と目で見る文字が一致し、その文字の意味をしっかり理解することが大切です。速く読むと、読んで理解したつもりでも、どこか浮ついた感じが残ります。
もちろん、個人の習慣や学法に対する理解はそれぞれ異なりますが、私は多くの同修に対して、学法は暗記するのが最良であり、読む際にはゆっくりと読み、これが心に法がしっかり入り込む良い方法だと伝えたいです。
どうであれ、自分がどうすれば法をよく学べるかを感じた通りに学べばよいと思います。私の体験では、学法は仏性を強め、正念を増し、真・善・忍の仏法に同化し、主意識を強化し、干渉を取り除くためのものです。学法は形式的に行うものではなく、学法自体が自分の修煉の一部でもあります。通読で学法をする際には、自分が大法弟子として学んでいるのだということを意識し、大法弟子としての正念を保ちながら学法をします。心が静かで穏やかな時、強いエネルギーを感じることができるのです。
事の大小にかかわらず、学法であれ日常生活であれ、すべてにおいて心を修め、正念を強める部分があります。
要するに、学法の量にかかわらず、心に深く入るほど良いのです。そうすることで初めて本当に法を得ることができるのです。
以上が、私のこれまでの学法の体験です。不適切な点があれば、同修の皆様に慈悲をもってご指摘いただければ幸いです。