文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年10月21日】数日前、同修・Aさんが私の家に来て、師父の最近の新経文を勉強した後、感想や悟りを共有し、また修煉中の些細な問題について交流しました。
同修・Aさんは言いました。師父はこのように説きます。「創世主はなぜ衆生を救い済度しているのでしょうか! 彼が衆生を愛しているからです! 衆生の命は全て、彼によって与えられたからです」。(『なぜ衆生を救い済度するのか』)Aさんは「それでは、この法で我々の修煉を指導し、人々を救っていきましょう。真実を明らかにする前に、まず『衆生よ、あなたを愛しています』とこの念を発してください」と述べ、それからAさんは、真実を明らかにし、人々を救った最近の成功例について嬉しそうに語りました。
突然、Aさんが私に「あなたは私を見下しているのですね!」と言いました。私は驚いて「そんなことはないですよ」と反論しました。「あなたはここの同修のほとんどを見下しているのです」と言われ「誰かを見下しているとは思っていないです」と私は弁解しました。Aさんは「あなたの言葉からそれがわかります」と言いました。この時、妻同修は「彼は誰も見下していない」と言い、Aさんは「彼はあなたも見下しているのです!」と言い、妻は「それは知っています」とうなずきました。
Aさんが去った後、私は内に向け探しました。私は「自分は人を見下していますか?」と自問します。答えは「はい」です。妻が法輪功を学び始める前、私に対して情が薄く、不親切だったため、それで憤り、ずっと不満を抱いていました。修煉後、嫌なことは忘れたいと思っていましたが、常に妻を見下していた根本が変わらなかったので、それが妻にも伝わってしまいました。
私は中共に従う者たちをさらに軽蔑しています。なぜなら彼らは善と悪の区別を持たず、中共の悪事を手助けするからです。社会の混乱が増大するにつれ、私は中共の独裁がすべての不公平と不正義の根本原因であることを認識しました。偽善的で、狡猾で、凶暴で、邪悪で、毎日、いかにして人々をコントロールし、山河を破壊するかを計算し、常に邪悪なエネルギーを注入しています。そして、中共の役人の中には、道義を問わず、権力を保持することは利益の源泉を保持することであり、権力を保持することはこの権威主義体制を守ることであることを知っています。私は中共に追従し、私利私欲のために大法弟子を迫害し、悪事を働いている彼らを特に軽蔑します。
しかし、同修を見下す? そんなことが可能だろうか? 私は今でも、包帯なしでは、あぐらをかくことができないのです。同修は私よりずっと優れています。同修を見下す権利が私にあるのだろうか? 同修は皆、高功徳のある人ばかりで、私は彼らを尊敬し、見下すわけがないのです。しかし、A同修は私が同修を軽蔑していると言いました。なぜでしょうか? それは、交流の中で謙虚に話を聞くことができず、自分の理解を過剰に強調し、同修の理解が浅いかもしれないと考えていました。これは同修を見下しているのではありませんか? これは同修を見下しています。これは自我に執着しているではないでしょうか? 時には指導的な口調もあるが、これは自分の心より魔が生じたのではないでしょうか? 考えてみれば、A同修は実は別の角度から法を理解していました。このような貴重な同修は、師父の教えをすぐに理解し、実践しました。では、なぜ私はその時喜びを示さなかったのでしょうか? それを妨げるのは「自我」であるはずです。自分の独善の心を手放さなければ、それは自然と様々な場面で現れることになります。
なぜ他人を見下すのですか? それは、自分の名声や富や愛を守るために、つまり自分を守るために、自分に執着し、他人に自分を見下させないということにほかなりません。そして自我を守ることは「利己主義」です。そして「利己主義」は、真、善、忍に反します。利己主義にはさまざまな執着心が生まれますが、その一つが他人を見下すこと、他人を傷つけるだけではなく、自分までもを傷つけてしまう、他人を見下すことは、実は「今の自分」、つまり「傲慢」に執着しているのです。将来のある時点で「今の自分」が傷つくと、その時の自分のことを見下してしまう、コンプレックスになります。私は悪党によって2度不当に拘留され、その都度、関を乗り越える時の状態は良くありませんでした。その後、とても落ち込んで、自分自身を卑下していました。
他人を見下していれば、自分も他人から見下されることになります。執着すればするほど敵対的になります。この人を見下したら、彼と同類の人も見下すことになります。こうして、あなたは多くの人と対立することになり、また多くの人から孤立し、拒絶されることになります。他人を見下すことによって、恨みや争いなどの人心が生まれることもあります。
したがって、修煉の観点から見ると、現在の宇宙は成、住、壊、滅の摂理にしたがって「滅」という最終段階まで進でおり、創世主は私たちにすべての衆生を救うように求められています。しかし、人を見下しても慈悲は生まれず、衆生も救われません。なんて悪い心でしょう。私はそれを取り除けるように修めます。真・善・忍の基準に従い、後天の変異した観念や物質をすべて取り除き、謙虚で他人のためになるようにします。
同修のおかげで、内に向け探すことができ、とても感謝しています。文章に、不適切な点がありましたら、慈悲なるご指摘をお願いします。
師父の慈悲なる済度に感謝いたします!
同修の無私の助けに感謝します!
合掌