文/米国の大法弟子
【明慧日本2024年11月25日】
尊敬する師父、こんにちは。
同修の皆さん、こんにちは。
冷淡は慈悲の欠如であり、人情がなくなって世俗を超脱しているようで、冷静そうに見えますが、両者は同じではないのです。これが、私の今回の交流テーマです。
善を修める
師父の最近の経文『目覚めなさい』を初めて読んだとき、師父が慈悲と善を強調されていると思いました。「慈悲は常人社会では善意と愛の心として体現されています。これも大法弟子の内面から滲み出た生命の状態です」(『目覚めなさい』)。私は、師父の警告が私に向けられていることに気づきました。私は法輪大法を26年間修煉していますが、すべての人に対して慈悲をもって接し、すべての人を愛しているだろうか? と振り返ってみると、まだそのレベルに達していないことを恥ずかしく思います。修煉者が慈悲ではなく、常人社会の優しさで他人に接することを見て、私は真剣に自分を反省するようになりました。それを見て、私もある程度同じ問題があると思いました。この交流で話したことは、すべて私自身のことです。
数カ月前、私は助けを必要としている親戚のために、多くの困難を乗り越えなければなりませんでした。私は、法を学び、発正念し、真相を伝える時間を作ろうとしましたが、地元の金曜日の夜のグループ学法に何度か出れなくなりました。やっと参加できるようになった時、ある同修が私の前にきて、どうして何回も欠席したのかと聞いてきました。「佛学会のメンバーとして、欠席すべきではない」と言いました。それを聞いて、私は「とりあえず、私のことを心配しているというべきで、あるいはその前に電話で私の状況を聞いた方がよいのではないか」と思いました。しかしすぐに、「では、他の人が欠席したとき、同じような状況だとしたら私はどうするだろう?」と考えました。
正直なところ、私にはこの面で改善すべき点がたくさんありました。
私は、同修が慈悲を欠乏すること、そして同修の間に慈悲が欠けていることをよく目にしていました。一部の同修は、慈悲の欠如は感情的でないため、良い状態だと考えているようです。「善の心は慈悲の一面であり、慈悲は私たちの修煉の基本だ」と私はこう理解しています。
他の同修のプロジェクトで起きた問題、他の同修が遭遇したトラブルに対して、冷静を保ち、心が動じない同修をよく見かけます。私は彼らに「あの同修が助けを求めています」と話すと、彼らは「落ち着いてください。自分のことに集中してください」とアドバイスしてくれました。彼らはまた、感情的にならない重要性を私に注意してくれたのでした。
しかし、私たちの多くの人は、とても冷静で超越的に振舞っているものの、本当に自分の執着のことに触れるとそうではなくなります。「他人の問題に無関心だからといって、自分にそれと関連する執着や感情がないわけではない。善意に基づいて考えているわけでもない。この点が非常に重要なところだ」と私は理解しています。
私は善を修める重要性を理解しました。なぜなら、時が経てば、善は慈悲に進化することができるからです。このプロセスには私は長年かかりましたが、当然、まだ完成していません。
師父は何度も私を励まし、短期間で一時的により高次元の状態に入る機会を与えてくださいました。この状態は言葉では言い表せないもので、これまでの人生でこれ以上の素晴らしいものを感じたことはありません。特に、チャイナタウンで何度も開催されたイベントでは、この状態に入ったのを何度も経験しました。その時、私はネガティブな考えも、恐怖も、恨みも、感情もなく、ただ、美しい人も、醜い人も、若い人も、年寄も、病気の人も、健康な人も、例外なくすべての人に対する無限の慈悲があり、彼らを救いたいという大きな願望がありました。師父が私をこの状態にさせて下さったとき、私はすべてのものが真・善・忍に符合していると感じたのです。この短い状態の体験は、師父が私に、普通のときにもこの状態になるよう努力してほしいと指示されているかのようでした。
執着心を取り除く
明慧ネットには、この話題について修煉者が書いた無数の記事があります。私はその多くを読み、本当に助けられました。修煉者が初めて執着心を取り除こうとしたとき、師父がすぐに取り除いてくださることは稀だと思います。通常、執着心を取り除くには長い間努力しなければなりません。
最近、私はネットワークセキュリティの問題で厄介な状況に陥りました。表面上から見て、私は問題を解決するために必要なすべての措置を取りました。しかしその後、私は静功を煉るときに落ち着くことができず、発正念も集中できなかったのです。私は内に向けて探し始め、支配欲、つまりネットワークセキュリティを完全にコントロールしたいという欲望を発見しました。さまざまな場面でこの執着心があったと覚えています。コントロールしようという執着を完全に取り除かなければ、さまざまな状況でよい結果を得ることはできません。今回は、(私自身のネットワークセキュリティの問題によって)同修に悪いことが起きてほしくないという考えの裏に、コントロールしたいという欲望が隠れていました。この執着心を本当に取り除きたいので、自分の考えに注意を払い、この件に関して正念を発しています。
また、私は、自分の過ちを直されることや批判されることに、ほとんど耐えられないことに気づき始めました。内に向けて探すと、自分が野心と利己心の上にプライドがあることに気づきました。その後、この問題については少し前進しました。今のところ、このような試練が来ても黙っていられますが、心は完全に平穏ではありません。私は、どんな試練も向上するチャンスだと思いたいのです。苦を楽としたい気持ちがあるのです。
試練があまりに長く続くと、自分を責めたり、過ちを後悔したりします。師父はあらゆる機会を使って、私の執着を取り除くことを助けてくださいました。しかし、私はよく不満があります。もし私がこれらの按排に文句を言ったとしたら、それは師父に文句を言ったことになるのではありませんか! 「師父は、私と衆生を救ってくださる最も偉大で最も慈悲深い主です!」と考えて、私はすぐに我に返りました。
師父は、私たちが修煉の道でもっと努力できるように、後で後悔しないように、最高のものを与えてくださいました。
以上、私の今の次元での理解ですが、法に則っていないところがあれば、ご指摘をお願いします。
師父に感謝いたします!
同修の皆さんに感謝します!
(米国グレーター・フィラデルフィア法輪大法修煉心得交流会発言原稿)