文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年11月26日】ここでは、自分の体験をもとに携帯電話に関する問題についてお話しします。私はずっと携帯電話の安全性に気をつけており、仕事に関係のないアプリは基本的に削除し、残しているアプリについても様々な対策を講じてきました。自分では一般の人のように携帯に夢中になっているつもりはありませんでした。
しかし、ここ2、3年で修煉の状態が大きく落ち込み、特にこの1年は真相を伝えるプロジェクトを段々と少なくこなすようになり、発正念も集中できず、煉功も中途半端に終わることが多くなりました。さらに、恐怖心が増し、家で子どもの宿題を見ているときに忍耐力を失い、すぐに怒鳴ってしまうようになりました。
時には自分の変化に驚くこともあります。あの精進していた自分はどこに行ってしまったのか? なぜこんなふうになってしまったのか? このままでは、自分の歴史的使命を果たせない! 私は焦りを感じ、さまざまな方法で怠惰な状態を変えようとしましたが、数日も続かず元の状態に戻ってしまい、とても悩んでいました。
数日前、「中国本土のスマートフォンは汚染の源、業力の源」というタイトルの記事を読んだとき、私はハッとしました。すぐに、携帯を見る悪い習慣を断つべきだと悟りました。
そうです、自分ではあまり携帯を見ていないと思っていましたが、待ち時間やトイレにいる時、仕事の合間の休憩時に携帯を手に取って見ることが多々ありました。仕事で資料を調べる必要があるときも、ついでに他の情報も見たりしていました。かつては、時々見るくらいなら問題ないだろうし、知識や社会の状況をもっと知ることができると思っていました。長時間夢中になることがなかったため、安心して油断してしまい、ちょっとした隙間時間に携帯を見てしまうようになり、だんだんとそれが習慣化していきました。
携帯は、まさに魔窟のようなもので、そこには情の魔や共産主義の邪霊などの邪なものが溢れています。執着するものがあれば、それを次々と推薦してきて、目をくらませます。修煉者として、浄化されていない身体を一つの容器に例えるならば、毎日の学法や煉功で不純なものを洗い流しているわけですが、携帯を見るたびに悪いものがその容器に入れられていきます。見る時間が長くなるほど、その容器はますます汚れていきます。
「携帯を見るべきではない」と気づいたことで、「長時間見てはいけない」ではなく、短い時間でも見る習慣を改めました。その結果、意外にも頭がまたクリアになり、自分の執着に気づけるようになり、正念も強まり、体も軽く感じられるようになりました。以前は、特に辛かった朝の煉功もかなり改善されました。もちろん、これからも続けていくつもりです。
携帯の害がこんなに大きいとは思いませんでした。気づかないうちに、私はそれによって自分をほとんど見失うところでした! 幸いにも、同修たちからの様々な指摘があって助かりました。
ここで時折、携帯を見ている同修にも警戒を呼びかけたいと思います。携帯はまさに毒のようなものであり、少しずつだから大丈夫というわけではなく、毎日の少しが積もり積もって、強力な携帯依存となり、それが修煉者を滅ぼしてしまうのです!
数年前の修煉を始めた頃のことを思い出します。その時、没収した生徒の漫画を寮に持ち帰り、机の上に置いていました。目を閉じて寝ようとした時、漫画の表紙に描かれたウサギの耳をつけたキャラクターが表紙から抜け出し、私の方に歩いてきたのです。少し怖くなり、すぐに正念を発してそれを消しました。たかが漫画の表紙でさえこれほどなのですから、携帯を見ている時には、どれだけの邪霊や不純なものが私たちの空間に入り込んでいるのか、想像してみてください。