文/遼寧省の大法弟子
【明慧日本2024年12月1日】私は2004年末に法を得た大法弟子で、今年72歳になります。
法を得て間もなく、師父の新しい経文『新年のご挨拶』が発表されました。何度も繰り返し読み、何度も涙を流しました。私は、草木のような存在で、生死の境をさまよう病弱な身でありながら、遠いところにいらっしゃる師父が私に挨拶をしてくださり、私を大法弟子と呼んでくださったのです。私には師父がいらっしゃるのだと、今まで感じたことのない温かさが全身に広がりました。救われたのだ、希望が見えたのだと、静かに「師父、ありがとうございます! ありがとうございます!」と心の中でつぶやきました。
法を学び始めて約3カ月後、体中の病が消え、本当に病気のない体の軽さを体感しました。師父に救っていただいた私は、「ありがとうございます」だけでは済ませられません。どのようにして師の恩に報いることができるでしょうか? それは、師父のお言葉を聞き、内面を見つめ、良い人になること、常に他人を思いやる良い人になることしかありません。それゆえ、私は自ら進んで人を救うプロジェクトに参加し、自分にできる限りの努力を尽くして貢献することを決心しました。私は多くの困難を経験しましたが、心の中には不満や後悔はありません。
2014年頃、同修のZさんが彼女のパソコンを私に託し、システムの交換を同修のWさんと私に一緒に依頼しました。私はパソコンをWさんに渡し、約1カ月が過ぎた頃、Wさんが私に「パソコンは持って行ったの?」と私に尋ねました。私は「持って行っていないよ」と答えました。すると、Wさんの義母が「あなたが持って行ったのよ。私は奥の部屋からパソコンを出して、椅子の上に置いたの。あなたが持って行ったんじゃないの?」と私に問いました。
しかし、私は持って行っていないことをはっきりと覚えていました。でも、どうやって説明すればいいのか分かりませんでした。Wさんの妻に「ここには監視カメラがあるでしょう? それを調べて、私が持って行ったかどうか調べてみてください。もし私が持って行ったのなら、映像で確認できるはずです」と言いました。Wさんの妻はカメラ映像をしばらく調べた後、「どの日か分からないから、みつからないわ」と言いました。
私はますます腹が立ちました。Wさんの義母は私が持って行ったと証言し、まるで私を冤罪に陥れるかのようでした。家族ぐるみで私を責めるなんて。怒り、嫉妬、争い、怨恨、様々な感情が心の中に湧き上がり、私は修煉者であることをすっかり忘れてしまいました。
家に帰ってから、学法グループで法を学んでいたときに、師父の言葉を読みました。「トラブルは突然現われるかも知れませんが、決して偶然なものではなく、みなあなたの心性を高めるためのものなのです」(『転法輪』)
この一文を読んだとき、突然悟りました。これはまさに心性を高める絶好の機会ではないか! 一瞬で理解し、心がぱっと明るくなりました。取っていないなら取っていない、それで怒る必要なんてあるのか? 何を言い争う必要があるのか? 修煉者が自己弁護をする必要があるだろうか? 良い人になるには、どんな時でも他人を思いやるべきで、私はまだその境地には程遠いのです。誰だって忘れることもあるし、間違えることもあります。私はなおさら、様々な悪い心に影響されてはいけません。どうしてもっと寛大になれないのでしょうか? 私はどうすればいいか、やっと理解しました。
その後、別の同修から中古のパソコンを購入し、Zさんに使ってもらおうと思って持って行きました。しかし、Zさんはどうしても受け取ろうとせず、私にそのパソコンを同修に返すように言いました。「無くなったなら無くなったでいい。もしかしたら見つかるかもしれない」と。そして、なんと本当に2カ月余りして、パソコンは戻ってきたのです。
この出来事を通じて、私はその一連の過程が心を修める過程であり、心性を高める過程であったことに気づきました。今後、トラブルに直面したとき、どう対処すればよいかがわかりました。
限られた境地で書いていますので、間違いがあれば、どうか慈悲の心でご指摘ください。