文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年12月1日】私の職業は教師です。1998年に大法の修煉を始めました。これまでの修煉の過程を振り返ると、常に師父のご加護の下で歩んできたことがわかります。ここでは、修煉を始めて以来、師父の慈悲深いご加護、大法の不思議さと偉大さについて書き、同修たちと交流したいと思います。
(一)法を得た喜び
1996年、私はB型肝炎を患いました。当時40代だった私は1年以上治療を受けましたが、目立った効果はありませんでした。省都の大型病院を頻繁に訪れ、薬を箱単位で買い、点滴液をケースで運んでいました。当時、B型肝炎は根治が難しく、保守的な維持療法しかありませんでした。この厳しい現実を前に、私は絶望し「人生の道はここで終わるのだろうか」と思っていました。
毎日7~8時間点滴を受け、食事もほとんど喉を通らない状態の中、ある人が法輪功を紹介してくれました。私は幼少期から学校教育を受けるなか、無神論の影響を強く受けていたため、最初は大きな期待を持つことはありませんでした。
しかし、その人が真心から勧めてくれたので、どうせベッドで寝ているなら時間もあるから、試しに読んでみることにしました。1日、2日が経ち『轉法輪』を十数ページ読んだだけで、書かれている法理に心を揺さぶられました。それまで聞いたことのない真理でありながら、とても納得のいく内容で、人の心を深く打つものでした。師父の言葉は平易で感動的であり、忠告であっても耳障りではなく、自分の多くの疑問を解き明かしてくれました。
病気とは人が生々世々で積み重ねた業力によるものだということ、人生の本当の目的は返本帰真であることを知りました。そして、法輪功とは修煉だと分かりました。「修煉」という言葉は、なんと神聖で奥深く、不思議なものでしょうか。それまで私は、和尚が山に入って修道する話や釈迦牟尼仏、達磨大師の修煉の物語しか知りませんでした。「修煉」という二文字は、古くて美しい伝説だと思っていました。しかし今、自分が実際に修煉をすることができると知り、両目が光り、広大な海の中で波に流される小舟が、ついに緑豊かなオアシスを見つけたように感動しました。
当時の喜びは言葉に尽くせないものでした。本当に自分は世界で一番幸運な人だと感じ、大法を修煉することを決意しました。もちろん、その後B型肝炎も、長年苦しんでいた下痢や風邪もすっかり消え去り、薬瓶とは永遠に縁が切れました。心に湧き上がるのは、師父への限りない感謝の気持ちだけでした。
修煉を始めてからは、学法、煉功、法を広めるなどを主な活動とし、日常生活の中では「真・善・忍」という法理に基づいて自分を厳しく律するようにしました。書中にある法の内包は絶えず現れ、読むたびに新たな認識と収穫を得られました。自分でも自身の変化が速く感じられ、師父の広大無辺な仏恩に包まれているようでした。
(二)師と法を信じ 魔難を乗り越える
1999年の「7・20」、邪悪な迫害が全面的に始まりました。中共のテレビやラジオ、国家機関すべてが、大法を中傷し、デマを流し、濡れ衣を着せ、罠にはめる行為を行いました。一時的に邪悪が世の中の隅々まで満ち、文化大革命や土地改革(運動)が再来したかのようでした。慈悲深い師父が中傷され、神聖な大法が汚され、当時、全世界の人々が中共の邪悪な嘘に騙されてしまいました。人々に真相を知ってもらうため、また自分の良心に恥じないために、私は同修と共に北京へ陳情に行きました。しかし地元に連れ戻され、数千元をゆすり取られました。それ以降、給料は支給されなくなり、いわゆる「敏感日」には、拘束されたり、自宅に押し入られたりして妨害を受けました。また、職場、家族、親友からも修煉をやめるよう圧力がかかりました。
80歳の父は中共の幹部で、中共の毒害を深く受けていたため、常に中共は「偉大、光栄、正しい」と信じており、他人に無条件で従うよう求めていました。私が父の言葉に従わないと、父子の縁を切ると脅し、さらに私を殴ろうとしました。私は避けませんでした。父の拳や杖が私の体や頭を打ち付けました。さらに、親戚や友人、妻や子供たちからの懇願や脅しもあり、その時、私の心は粉々になりました。まさに「百の苦 一斉に降る 其の如何に活くかを看る」(『洪吟』「その心志を苦しめる」)という状況でした。
その後、砕けた心を拾い上げ、自分に問いかけました。「あなたが間違っているのか?」と。しかし答えは「違う!」でした。法を学び、真・善・忍に従って良い人になることは、良心に背くものではない、これは間違いではないと悟りました。この苦難は情の関を乗り越えるためのものでした。もし自分がここで諦めてしまったら、自分だけでなく、彼らも同時に滅ぼしてしまうことになります。なぜなら、彼らも大きな業を作ることになるからです。
2000年秋、大規模な逮捕がありました。地元では14~15人が逮捕され、全員が拘置所に収容されました。私が逮捕された理由は「真相を伝えたことを告発されたから」でした。私は非合法に8カ月以上拘禁され、その間さまざまな迫害を受けましたが、慈悲深い師父のご加護の下、正念でこの試練を突破しました。
収容された後、私の心には一つの念がありました。「どんなに辛くても、自殺せず、絶食せず、長い投獄生活を怖れない」。この念は一見正しいように見えますが、今振り返ると、それは常人のいわゆる「強さ」に過ぎませんでした。この一念があったため、旧勢力に8カ月も拘禁される結果となりました。
最終的に、師父が私を悟らせてくださいました。ある日、家族が面会に来た際、「あなたのために私がこんなに耐えているのに、私にこれ以上の負担をかけるつもりですか?」と言われました。この言葉に驚きました。明らかに師父が家族の口を借りて弟子を啓発してくださったのです。「そうだ、自分はここにいるべきではない。法を証明することもできず、親や子供の面倒を見ることもできないのだから」。そして私には「出ていく。生きて外に出ていく。外には私がすべきことがある!」という大切な一念が生まれました。
10日間の絶食のなか、多くの虐待を受けましたが、私は生きて出てくることができました。これは予想もしなかったことです。この出来事を通じて私は、修煉は遊び事ではなく、着実に修めて基準を達成しなければならないことを悟りました。同時に、生死を放下するとは死ぬべきということではないと気づきました。私たちは師を助けて法を正す弟子であり、人を救うことが使命であり、世の中の人々はみな私たちが救い済度すべき衆生です。どうして簡単に命を手放すことができるでしょうか? 大事な瞬間に決断を下すのはやはり自分自身なのです。
しかし、この点に関しては後悔もあります。当時、隣の監房にいた同修は、普段から「自分は他人のための足場になり、犠牲になるのも甘んじて受け入れる」と話していました。その同修が、他人のためなら、死んでも構わないということを意味していると知っていました。当時はそれがとても無私の心のように感じられましたが、結果的に旧勢力の按排を認めたことになってしまいました。当時はこの考えに漏れがあるということに気づかず、彼と深く話し合うこともできませんでした。そして、私が出所して10日余り後に、その同修が迫害で命を落としたという知らせを聞きました。裁判もなく人を死に至らしめるという事態になりました。その上層部になる「610弁公室」が追及しなかったものの、関係者たちは内心怯え、残りの10数名の学習者を全員釈放しました。
(三)慈悲を修め 経済的迫害を否定する
出所後、体力を回復してから学校に出勤しました。私は「真・善・忍」に従い修煉することに罪はなく、彼らが私に罪状を押し付ける理由もありませんでした。ある日、学区の校長が「上からの指示で、給料は支払わず、生活費として(毎月)100元だけ支給する」と話しました。後に確認すると、私の個人口座には確かに毎月100元しか振り込まれておらず、2008年にはさらに数十元に減額されていました。このため、私は愛してやまない教壇を離れ、生計を立てるために職を探さざるを得ませんでした。生計のため、省都の人材市場や県内の私立学校、農地を借りて耕作し、灌漑事業に従事したり、民間の工場や鉱山で働いたりしました。
その後数年間、給料が差し押さえられたことに関して関係者を何度も訪れました。郷の書記は「私は知らない。財務所で聞いてくれ」と言い、教育局は「こちらでは全額支給している」と回答しました。最終的に学区が差し押さえていると分かり、当時の学区の校長にこう尋ねました。「私の給料は教育局から全額支給されています。差し押さえるには政工科からの通知が必要ですが、それも受け取っていません。差し押さえる理由がないはずです」。すると彼は「『610弁公室』が差し押さえろと言うから、そうしている。江沢民にでも聞きに行け。今すぐ『610』に連絡してお前を逮捕する、働いていないのに給料をもらいたいというから」と返答しました。実際、給料が差し押さえられたために働けなくなったのに、彼は逆の論理を使っていました。
定年を迎える頃、私は他人のために働いていた仕事を辞め、学区と総校長の間を1年間くらい行き来しました。この過程で、実際には別の空間で正義と邪悪のせめぎ合いが繰り広げられていたのです。出発点を正しく保ち、一心に他人を想う心で、別の空間にある邪悪を解体しました。
学法を通じて私は悟りました。これは別の空間の邪悪が、彼らを利用して大法に罪を犯しているのであり、もし彼らが目覚めず、罪を重ね続けるならば、本当に救われる機会を失ってしまうのです。一方で私たち大法弟子は、この迫害の中で円満成就を果たすのです。
本当に迫害されているのは私たちではなく、むしろ彼らなのです。彼らこそが可哀そうです。この認識に至った時、限りない慈悲が生じました。この十数年間の迫害によるあらゆる傷跡が消え去り、心にはただ「人を救う」という思いだけが残りました。旧勢力が彼らを利用、滅ぼすことを放っておくわけにはいきません。それは単に自分の給料を取り戻すことではないのです。その時、心が晴れ渡り、天も清らかで体も軽やかになりました。
私は穏やかな心で当時の学区校長と会い、自分の修煉の過程と大法の真相を慈悲深く忍耐強く話しました。大法が私に起こした奇跡、私がどのように「真・善・忍」に従って修煉してきたか、師父の慈悲と偉大さ、そしてその言葉がいかに心に響き、耳障りでない忠言であるかを伝えました。感動する部分に差し掛かると、自分でも涙が溢れることがありました。その間、校長が少し心を動かされたように見えた瞬間もありました。
私はこう言いました。「十数年が経ち、校長も何人も交代しました。この給料の差し押さえは、あなたが最初に始めたわけではないし、あなたたちを責めません。これまで差し押さえられた分については、私はもう求めません。ただ、私はもうすぐ退職するので、退職の手続きをしてほしいのです。そして退職後の給料だけはそのまま支給してください。これをきちんと処理してくださることは、あなたの人生において最大の善行となるでしょう。歴史が新たな一章を迎え、大法の真相が明らかになる時、あなたはこの選択をした自分を誇りに思うはずです」(この話し合いの前に、一通の善意を促す手紙を渡していました)
私は普段から人との付き合いを大切にしており、同僚や生徒たちとの関係は良好でした。学区の責任者に会いに行くたびに、同僚に出会うことがありました。彼らはいつも「〇〇先生、私のオフィスで休憩してください」と声をかけてくれました。学区の責任者が不在の時は、同僚のオフィスに立ち寄り、挨拶を交わした後、自分の用件を話しつつ、自分の体験を自然と語りました。同僚たちはその話を喜んで聞き、学区長がどの曜日に会議を開くのか、いつオフィスにいるのかなどの情報を教えてくれることもありました。彼らの同情と助けに、私はとても感謝しています。
後日、学区の責任者に再び会うと「もう来なくても大丈夫です。経理に話をつけました。退職後の給料は誰にも手を触れさせないようにし、きちんと処理します」と言われました。(同僚たちが私をオフィスに誘う様子を学区の責任者も目にしており、同僚たちが私の影響を受けるのを恐れていました)総校長が許可を出しましたが、会計(副校長兼任)は依然として言い訳をして支給を遅らせようとしました。教師たちの給料の流れは、教育局の財務部門から学区へ、学区から各校長を通じて教師に渡る仕組みになっていました。その後、現金支給が廃止されて以降、給料は直接預金口座に振り込まれるようになりました。しかし、学区の経理は私の証明書を利用して別の口座を作り、そこに(毎月)2000元以上を振り込み、私の口座には数十元しか入れないという手口を用いていました。
後日、経理のところに訪れた際、預金通帳を作る必要があるから、一緒に銀行に行こうと言いました。銀行に着いた時、彼の持っていた通帳が磁気不良で使用できなくなっていることが分かりました。現在では新しい通帳を作る際、本人が直接手続きをし、写真を撮る必要があるため、手続きは複雑でした。二度目の手続きでようやく新しい通帳を作ることができました。この間、私はその新規作成の通帳を手に入れることができ、そこに記録された給与の流れを確認しました。そこには、私の給料がどのように盗まれていたかの全容が明らかにされていました。新しい通帳を作った後、古い通帳の磁気不良がなぜか修復されていました。真相が明らかになった後、私は新しい銀行カードを作るよう求められ、その後ようやく正規の給与振り込みが始まりました。この時点で、私に対する16年間にわたる給与の搾取が終わったのです。
私は、学法を通じて慈悲の心を修めることができ、徐々に他人のために生きる生命となることができました。弟子のその善の心を師父がご覧になり、私の身にある良くない物質を取り除き、さらに別の空間の邪悪を消滅させてくださったことで、この奇跡が起こったのだと悟りました。例えば、あの通帳が彼らの手にあるときに磁気を失い、公開の場で磁気が回復したという現象です。
当初、学区に相談しに行った際、私の心には自身が受けた不当な扱いへの怒りや不満があり、目的は給与を取り戻すことでした。そのため、邪悪を刺激してしまい、再び迫害されそうになりました。しかし、その後、私は心を穏やかに保ち、怨みも欲も抱かず、名利を放下し、ただ相手を救うことだけを考えるようになりました。すると、思いもよらない好転が生じました。師父に心から感謝申し上げます。
以上は私の個人的な体験です。不適切なところがあれば、同修の皆様の指摘をお願いします。