文/米国の西洋人大法弟子
【明慧日本2024年12月5日】初めに、こうして皆さんとこのように修煉体験を共有できる機会を与えていただいたことに、心から感謝申し上げます。この20年近い修煉の歩みを振り返れば、私の体験が共に歩む同修の皆さんの修煉の道に役にたつかもしれません。 これらの悟りが私たち修煉者全体の力となり、前進し続けるためのひらめきとなるよう願っています。
一、修煉は単に「大法に関わる仕事を行う」ことではない
さまざまな法を広める活動や、大法を実証するプロジェクトへの参加は確かに重要ですが、それだけで真に修煉をしているという保証になるものではありません。さらに学法や煉功は修煉と向上の基本ですが、それですら真の修煉を保証するものではありません。
修煉の過程を通じて徐々に私が悟ったことはといえば、修煉の核心とはすなわち心を修めること、大法の原則と要求に従って行動したいかどうかということです。つまり、心から大法を学びたいと思い、内に向かって探し、神となるまで忍耐し不屈に堅持し、また人々に対しては、大法に対する理解と救われる機会を得られるよう助けることにほかなりません。
ここ数カ月の間に、私はより高い修煉の境地に達し、他の空間における自分自身の微妙な変化を感じるようになりました。これは私が、大法を心の中の最も重要な位置に置いた結果だと考えています。
私は心の中で幾度となく、師父と真剣な対話を交わしてきました。あたかも子供が父親に心の内を打ち明けるかのように、修煉中に直面する怨恨や苦悶、不安と疑惑を解決するために、師父のお導きを心から祈り求めてきました。
また、発正念の時間を30分に延長してみました。するとその効果は非常に顕著であり、私の空間場の多くの場が浄化されました。次第に、困難を乗り越えた後の軽やかさと喜びを感じるようになり、暮らしはより楽になってきました。心の状態が変化するとともに、学法、煉功、大法プロジェクトへの取り組みも単なる形式的なものではなく、真に実りある充実したものへと変わりました。そのことが更に私の修煉に取り組む意欲を高めることになったのです。
もちろん私はまだ間違いを犯すことはありますし、否定的な考えが時折頭をよぎることもあります。疲労、倦怠感、悲しみといった感情も現れます。それでも、これらこそがすべて法輪大法の修煉の一部であり、修煉によって成就された部分はすでに切り離され、残っているのは今からまだ修煉すべき部分であることを徐々に悟りました。
私の修煉に対する心の状態も、不平不満から感謝へと次第に変わっていきました。私は気づいたのです。もし大法を真に学び、同化しようとする心がなければ、私たちはただ机上の空論をこねるだけの学者のようなものであり、大法の威力を真に体験することはできないのだということを。ですから、大法について証言し迫害を暴露するためにどれだけ力を尽くしたとしても、もし私が心から真の修煉者でありたいと思っていないとすれば、大法の力が私の生活におよぶことは、ありえないのです。
二、怨恨は毒薬
私が妨害され、邪悪に利用される原因の多くは、怨恨と苦悶にあります。何十年もの間、プロジェクトの仕事や他の修煉者との関わりの中で、これらの感情は徐々に深まっていきました。それがついには師父や大法への疑念とさえなってしまったのです。
私の体内に否定的なな物質が蓄積し始め、特に消化器系や腹部に影響を及ぼしました。そしてこれが否定的な感情をさらに呼び、健康を損ない、生命が危険にさらされるまでなったのです。
この一連の悪循環は2015年に始まり、2018年に状況が深刻化しました。そして2020年になってようやく好転しはじめたのです。現在では、ほぼすべてが浄化されましたが、まだわずかに、この一連の残滓(し)が存在しています。
最近、師父が新しい経文の中で、怨恨、魔難、不平、迫害、そして人間生命の存在意義について言及なさいました。師父が、私たちがなぜここにいるのか、なぜこれらの魔難や試みに直面するのかを明確に教えてくださったと感じています。
私の理解では、すべては個々の生命が持つ業力や徳の量に関係しており、さらに各人の他の空間の生命とも関連しています。他の空間での罪はこの空間での罪とは異なるというのが私の理解です。しかし、一部の修煉者は、これらの問題を法によって解決する道を悟れず、旧勢力が按排した進路をひた走っているのです。
かつての修煉者、元神韻のスタッフ、元飛天の学生たちが、ソーシャルメディアや主流メディアで他の修煉者や大法を攻撃しています。修煉者の大半は分別をもっていますが、一部の修煉者は彼らを支持しています。
私はこの事実に動じるのではなく、彼らを操る邪悪を正念で清め、彼らのために真摯に祈っています。また、なぜ私たち修煉者が全体としてこれらの出来事を経験するのかを理解しようと努めています。修煉の中で、偶然のことは何一つないからです。
私の現在の理解では、多くの問題の発生は、一部の修煉者(私自身も含め)が真相を伝え、大法を証明するプロジェクトや活動に関与したことに起因しています。その中で、責任者が深刻な過ちを犯したことが判明し、責任者に注意を促した修煉者もいましたが、何の対応も見られませんでした。そのため、注意を促した修煉者たちはこれらの問題をソーシャルメディア上で公開するという方法を採ったのです。これらの修煉者たちの本来の意図は大法を守るということであったはずです。
しかし、この採られた方法は根本的に誤りであり、ただ怨恨や不満、不公平感をさらに深めただけにすぎませんでした。旧勢力は彼ら修煉者を利用して師父や大法を攻撃しており、これらの行為は極めて邪悪で罪深く、彼ら修煉者を大法から逸脱させるものです。
私がこのことに言及したのは、修煉には多くの側面があり、人間の心で測ることができない側面があるということを強調したいからです。私たち一人一人が、不公平や屈辱、裏切り、甚だしきに至っては、最も尊敬し信頼している人々からの妨害といったさまざまな形の経験をしてきました。私がそれらを受けとめるには長い時間を要し、そのことが私を酷く苦しめました。これほど苦しんだ理由は、私がこれらの出来事に対して人心や様々な情で対処しようとしていたからに他なりません。
修煉の中で、外に向かって何かに依存して修煉をし、全身全霊で無条件に真・善・忍に従って生きるのでなければ、根本的な執着に直面したときに危険な道に進む可能性があります。それは、怨恨という毒素を修煉者に蓄積させ、ついには修煉を放棄し、自滅に至る道でさえありうるのです。残念なことに、そのような例はすでに世界各地で現れています。
師父は常に私たちに時間と導きを与えてくださり、最近の経文で正しい方向を示してくださいました。しかし、私たちの執着心が、修煉と神になることへの願望を超えたときには、操られやすくなり、大法の輝かしい道から外れてついには邪道に向かってしまうのです。私自身の修煉の過程では、怨恨が最大の障害となり、神聖な修煉の道から外れかけたことがありました。
三、師父のお導き
では、何が私を苦境から救い出したのでしょうか? 法を学び、功を煉り、大法を実証し続けることに加えて、私は心から他人と自分自身を許そうと努めました。疑問があれば正直に表明し、神の助けを求め、自分の考えに固執するのではなく、真理を求めました。 私は、人生と宇宙に対する自分の理解が限られていること、そして自分の智慧では真実の一部しか認識しえないことに気づきました。そして、私が修煉できるのは、すべて師父の慈悲深い救いのおかげだということも理解しました。
このような謙虚さと大法への信念を持ち続け、絶えず努力し、常に内に向かって探し、徐々に怨恨の毒を取り除いていくことで、最終的に修煉団体内や自分の修煉過程で生じたこれらの問題にどう対処すべきかを悟りました。こうなってみれば、結局のところ修煉の中で起こるすべてのことは良いことなのです!
師父は幾度も私を救ってくださいました。2015年から2018年にかけて、師父の法身が3度、音声の形で現れてくださいました。私にはお姿は見えず、ただはっきりと聞くことができました。
その1度目は、他の修煉者の行為に腹を立て、修煉を諦めようと決意したときのことでした。一晩中妻に不満を漏らした私は、疲労困憊して眠りにつきました。すると悪夢を見たのです。夢の中で私は業力の海から逃れようともがき苦しんでいました。
すると突然、大きな力が私を海底へ引きずりこんだのです。沈む私は黒い水の中で息ができずもう死んでしまう、というときに目が覚めました。目を開けるとすぐに、師父の法身がこう仰いました。「良い人になるか悪い人になるかは単なる選択に過ぎ、どちらを選ぶかは自由です。しかし、他人からどう扱われようと、あなたは良い人になるか悪い人になるか、何が正しいのかを選ばなければなりません」。
この言葉を聞いた後、私は天目で中国人の修煉者が殴られているのを見ましたが、その人は慈悲の心で暴力を振るう人に接していたのです。
この経験により、私は修煉の道に戻ることができ、慈悲を教えてくださった師父に感謝しています。
二度目は、なぜ師父が一部の人々が過ちを繰り返すことをお許しになるのかと疑問に思ったときでした。師父の法身が再び現れ、こう仰いました。「私は人の心だけを見ています」
これにより、修煉は自分の心を修めることであり、他人を非難することではないと理解しました。修煉は内に向けて探すことであり、外に向けて探すことではありません。
三度目は、大規模なプロジェクトに参加したときのことです。私はこのプロジェクトで良い成果を挙げることができましたが、協調人から度々厳しいことを言われました。8カ月間の絶え間ないストレスで私は疲れ果て、数時間入院したことがありました。回復して退院し家に戻った私は、坐禅をすることにしました。そのとき天目を通して、他の空間で火の玉や稲妻、巨大な波が私の体を襲っているのを見たのです。
師父の法身はこう仰いました。「業は返さなければならないのです」。こうして私は、このプロジェクトでの出会いは大量の業力を返済するためのものだったのだ、と理解しました。
もう一度、非常に鮮明な夢を見ました。夢の中での私は大きなビルの中にいて、各フロアの配置が常に変化するさまは、この世の無常を象徴していました。
あるフロアでエレベーターを降りると、金色に輝く金のレンガで敷き詰められた道が見え、ある同修が厳かにその上を歩いているのです。このとき、夢の中で師父が「どの弟子にも輝かしい道がある」と仰いました。
師父が常に私たちのそばにいらしてくださることをよく理解しています。しかし、真に修煉する心だけが、私たちを正しい道に導くことができるのです。修煉の過程で、私たちは外部の支えに頼る心をすべて取り除き、大法に全身全霊を捧げる心だけを残さなければなりません。
四、小さなことを大切にする
心の状態が変わり、苦しみにも喜びを感じられるようになるにつれ、私は、活動することへの執着、特に自分が真に修煉していることを証明するために大きなプロジェクトに参加しなければならないという執着を徐々に放下しました。
今では私は、私が全体の中の小さな一粒子に過ぎず、プロジェクトの大小に関わらず、どこでも自分の力を捧げたいと思うようになりました。
明慧ラジオで多くの修煉体験を聞いた後、中国の同修たちの粘り強さに心から敬服しました。彼らは日々、面と向かって人々を救っています。
以前は、このやり方では時間がかかりすぎる、と思っていました。しかし今では、揺るぎない人を助けるという純粋な心が、いかに人々の心を動かしうるのか、その途方もない力を理解しています。
最近、簡単な計算をしました。もし修煉者各人が毎日一人の常人に真相を伝えるとしたら、世界中の100万人の同修が1年で3億6500万人を救うことができ、5年で18億2000万人を救うことができます。
この認識により、全体の力の大きさをより深く理解することができました。私たち一人一人が着実に前進しさえすれば、一人の一歩がどんなに小さな一歩であったとしても、全体では大きな目標に到達することができるのです。
法を広める大きなプロジェクトは非常に重要です。私も引き続き参加しますが、最も重要なのは継続する心であり、日々たゆまぬ努力をして人々を助けることだと理解しました。
この心構えにより、私の心はより柔軟になり、顕示心を手放し、小さなことにも集中し、生活のバランスを取り、他人と調和して過ごすことができるようになりました。今では、山のように大きくもなれるし、塵のように小さくもなれると感じています。どちらも同じ力を持っているのです。
最近になってようやく、大法弟子であることがどれほど幸運なことなのかを本当に実感しました。師父に感謝申し上げます!
以上が私の修煉体験です。不足の点がありましたら、同修の皆様からの慈悲深いご指摘をお願いいたします。