文/カナダの大法弟子
【明慧日本2024年12月7日】みんなが「三つのこと」をしっかりやると言っていますが、私は長い間、1つのことをしっかりやってこなかったように突然気がつきました。
何年にもわたってある地域で、とても努力している古い修煉者たちのことを見たり、聞いたりしてきました。彼らは過去20年以上にわたる反迫害活動と衆生済度の中で大きな役割を果たしてきた同修です。中には協調役として活躍している同修もいます。しかし、重い病業の状態に陥り、打破するのが非常に難しく、長期間にわたり続いているケースが多いのです。そして、最終的に肉体を離れて亡くなってしまう場合もあり、周囲の同修にとっては困惑、後悔、教訓を残しています。
長い間、私はこれに対して困惑していました。そのような同修たちが普段の交流や行動において、一定の法理に対して深い理解を示し、物事をうまく進めることが多いのに、なぜ魔難に長期間苦しめられ、突破できないのかと疑問に感じていました。
最近になって、私は発正念を重視することについて、ある程度の個人的な体験と法理に対する理解が得られたと感じています。もちろん、これはあくまで私の現段階での理解に過ぎず、必ずしも正確ではなく、完全ではないかもしれませんが、参考として共有したいと思います。
一、感覚と愚鈍
通常、私の天目は何も見えません。そして私は、長い間、発正念について義務を果たしているような感覚がありました。自分の身体に表れている業力の状態に対して、発正念をしても目に見える変化がないように感じていました。
数年前のある夜、家に一人でいたときのことです。発正念をしている時、部屋の灯りをすべて消し、暗くしました。すると突然、私の空間場に黒々として見えない様々な乱雑な影像が一面に押し寄せてきました。すぐに私は背筋が凍るような恐怖を感じました。それは、まるで怪談映画を見るよりも怖く、無意識にすべての灯りをつけてしまい、師父の法像がかかっている部屋に駆け込み、師父の加持を求めながら、発正念の口決を何度も唱え続けました。その後、しばらくしてようやく落ち着きを取り戻しました。その夜は二度と再挑戦しようという勇気も湧きませんでした。私はとても落胆しました。大法弟子である私が、どうしてこのように怖がってしまうのでしょうか?
翌日の夜、再び発正念の時間がやってきました。私はまたすべての灯りを消し、部屋を真っ暗にしました。心の中で少し不安を抱きながら待っていると、1~2分後、前日のような場面と感覚が再び現れました。今回は心の準備があったので、“滅”という字を心の中で繰り返し唱え、恐怖で頭皮がぞくぞくするような感覚に耐え続けました。どれくらいの時間が経ったのか分かりませんが、目の前の景色が徐々に灰色になり、次第に明るくなっていきました。
3日目の夜も同じようにしましたが、何も見えませんでした。4日目、5日目、6日目……毎回早めに灯りを消して万全の体制で臨みましたが、何も見えず、何も感じませんでした。ふと気がつきました。邪悪が私を怖がらせることに失敗し、逆に、私が非常に集中して発正念をするようになり、邪悪にとっては損失が大きく、少し割に合わないと感じたのではないでしょうか? 前向きに捉えると、普段私は何も見えないために発正念をあまり重視していなかったので、発正念の威力を示すためにこのような体験を与えられたのではないかとも考えました。
こんな貴重な経験をしたのに、人は人であるため、自分の人間的な表面の鈍さがあって、真剣に努力したのは数日間だけでした。やがてあの強烈な感覚が次第に薄れてくると、発正念も以前の“任務を果たす”ような状態に戻ってしまいました。
二、発正念時の手が倒れる問題の修正に努力する
以前の長い期間、私は確かに多くのことを引き受けており、それなりに大変でした。ほとんど一日2~4時間しか睡眠をとっていませんでした。その頃から、発正念時に手が倒れてしまうことが常態化してしまったのです。同修から何度も注意されましたが、自分ではいつも「抵抗している」ように感じていました。周りの同修たちはとても親切で、根気よく注意してくれましたが、私は自分では手が倒れていないと思っていました。そのため、同修が突然私の倒れた手をつかんだり、手のひらを軽く叩いたり、軽くつついて注意してくれることが多々ありました。
時には目を開けて発正念をしても、同修たちはまだ「手が倒れている」と言いましたが、私にはその感覚がありませんでした。しかし、同修たちは実際に私を見ているので、当然彼らの言うことが正しいはずです。そして、長期的に発正念の状態が良くないため、身体にも影響が出ていました。膝が痛み、一時は歩くのも痛みを我慢して、周囲に気づかれないようにしていました。
そこで、自分が発正念をしている様子を携帯で録画してみることにしました。約3~4カ月間、録画を続けましたが、非常に落胆しました。目を開けて発正念をしている時ですら、録画には時々ぼんやりとした瞬間が映っており、その間に3~4回手が倒れていることがよく分かりました。おそらく、倒れる手を克服しようとする強い気持ちがあったからでしょう。私に影響を与えている悪い要素が次第に取り除かれていったようです。約半年間、携帯での録画を手助けにした結果、発正念時の手が倒れる問題はほぼ解決しました。
しかし、人間の観念や習慣、状態というのは本当に頑固なもので、手が倒れなくなっても、発正念の際に集中力が途切れることがあり、依然として発正念が「任務を果たす」ような状態を突破できないままでした。
三、同修との交流で発正念を重視することの重要性に気づかされた
ある時、とても親しい同修から電話がありました。「誰々が問題を起こした。気をつけろ、次は君だぞ!」と言われたので、その場で口論になってしまいました。しかし、後になって彼にはとても感謝しました。ちょうどその同修が、私たちの交流グループで、ここ2年ほど発正念を重視してきたことから得た体験を2度ほど発表してくれていました。
ですが、誰も反応を示さないようでしたので、私は彼に2回電話をかけました。彼と3時間以上話し、ほとんどが彼の話でしたが、彼の多くの体験談にとても刺激を受けました。その同修が交流してくれた主な内容は、発正念の過程で自分の既に備わっている機能や法器をどう活用するかということ、特に普段(他の空間を)見えない同修にとって、無形の法器がどうやって有形のものとして作用するかについてでした。
明慧ネットには発正念に関する交流が非常に多く、とても良い内容が揃っています。しかし、過去の私は「それは遠い話に過ぎない」という誤った考えを持っていました。それに、あのような記事は細かく説明できない部分もあります。一方で、身近な同修たちとの交流では、分解して詳しく説明してくれるような感じで、より共感を得やすく、親しみを感じました。彼との何度かの交流を聞いた後、私は心が触発されました。さらに、明慧ネットに掲載されている発正念に関する多くの記事を読み、多くのヒントを得て、考えが少し開けたように感じました。そこで、発正念をより一層重視するようになりました。
四、鮮明で衝撃的な体験が私に与えた深い感動
3カ月前、長距離運転を終えて家に帰りました。時刻は夕方の6~7時頃で、かなり疲れていましたが、食事を済ませてすぐに寝ました。目が覚めた後に法を学び、煉功し、体調も良く、心身がすっきり整っていました。夜の12時になって発正念の時間となり、発正念を終えた後、さらに30分間坐禅をしました。そして、12時50分から2時10分までの80分間、発正念を行いました。忘れがたい80分間でした。
この80分間で、私は5回の激戦を経験しました。最初の戦いは、以前に述べたような黒々とした恐怖が一面に広がり、まるで上方から迫ってくるようでした。見えるのは頤和園の銅牛のような黒光りする影で、表面は油っぽく光り、その下には無数の小さな輝く点がびっしりと詰まっており、言葉では言い表せないほどの恐怖感があり、それが私の額にまで押し寄せてきました。
私は耐え、意識の中で「滅」という字を念じ、さらにここ数カ月間試みている法器や功能を動員する方法で対抗しました。正念の効果が感じられたわけではありませんが、十数分後に目の前の暗闇が徐々に薄れていきました。しかし、とても疲労を感じました。すると、第二の邪悪がまた襲ってきましたが、1回目と似たようなものでした。その後、3回目は色が灰色で、すでに恐怖感はありませんでした。4回目は猛然と迫ってきて、まるで巨大な吸盤が私を吸い込もうとするようでした。これも十数分くらいかかって対抗しました。
5回目は、目の前に巨大な黒いスチールワイヤーのようなものが現れ、その中心が垂れ下がって巨大な穴が開いていました。私はそれが「地獄」だと直感し、その時、心には一切の雑念も恐怖もなく、ただ一つの思いがありました。「下へ行こう」。その後、その中の色が灰色に変わり、崩れ落ちる残壁が一面に広がっていきました。そして次の瞬間、私は鬱蒼とした野原に立っており、右後方には森林、右前方には一列のロケット砲があり、密集した砲火が遠くへ向けて撃ち放たれていました。喜びの気持ちが湧き上がると、ふと寝床に戻っていました。非常に疲れを感じました。
明慧ネットの記事に描かれる発正念の崇高な場面は、私の体験を遥かに超えていますが、やはり自らの体験であるため、深く心が動かされました。それは歓喜ではなく、衝撃でした!
2001年、師父が大法弟子に発正念を直接指導されてから、すでに23年が経過しましたが、私は発正念を行う時、そのほとんどの過程で基準に達しておらず、多くの場面では、発正念をほとんどしていなかったようなものでした。そんな時、邪悪は何をしていたのでしょうか? 旧勢力は何をしていたのでしょうか? 彼らは手をこまねいていたわけではありません。私たちの無防備な身体に対して、彼らは容赦なく侵入し、迫害を行っていたのです。
今回の発正念での強烈な体験は、実は、過去に私の空間場に蓄積されていた邪悪の攻撃であり、慈悲深い師父がその機会を与えてくださり、それを感じ取ることで、発正念を重視するようにと導いてくださったのです。そして、過去に生じた巨大な隙間をできる限り埋めていけるよう、努力を続けることができるのです。
五、長時間の発正念でエネルギーと法器、神通を動員し、無形から有形へと変化させる努力
師父は「法を実証する時、基本的にこの空間にある主体が行っているのです。正念が強い時、エネルギーと法器、神通力を動かすことができます。普通はそういう状況です」(『音楽と美術創作会での説法』「美術創作研究会での説法」)とおっしゃいました。
「正念を発するとき、何も考えていないという入静の状態を要求しません。正念を発するとき、念があるのです。しかも、念は非常に強いのです。今、主に中共悪党の邪霊とそれらの黒い手、卑しい鬼を解体・消滅・根絶することを考えるのです。これは、完全に入静した状態とは、やはり違います」(『ロサンゼルス市法会での説法』)
師父の講法を学ぶことで、発正念の中でエネルギーや法器、神通力を動員し、無形から有形へと変化させる努力が法理にかなっていることを実感しました。
現在、私は毎日4回の正時での発正念を確実に行うことに加え、毎日1~2回の長時間の発正念も行っています。発正念の中で、法器や神通を動員しています。
現在のところ、主に自分の意念でイメージしている感覚があります。例えば、「神韻」の天幕に現れる孫悟空の金箍棒(きんこぼう。通称は如意棒「にょいぼう」)を思い浮かべると、時々体が灌頂を受けるような感覚があります。ある時、長時間の発正念を行っているとき、私はただ静かに呪文を唱えていると、突然私の左側から巨大な金箍棒が現れ、一端が細く、もう一端が太く、「神韻」の天幕で見たように前方の暗闇に打ち込みました。またある時、身体の両側から細い光の束が発射されるのを感じることもありました。時には、法輪が回転しているような感覚もあります。もちろん、あまり具体的に考え過ぎるべきではないと思います。人間の意識で考え過ぎると、法理で述べられているように視神経を動かし、天目で見えなくなってしまうことと似ているからです。
長時間の発正念と発正念を重視することを始めたばかりで、まだ実感は少ないですが、3つの進展がありました。1つ目は、発正念時に集中力が増し、意念がより集中しやすくなったこと。2つ目は、法器や神通を使う感覚が以前より増えたこと。3つ目は、交流している同修と同じく、『轉法輪』を学ぶ時に、発正念との関連で法理をより深く感じられるようになったことです。
六、神剣が目の前にあるのに、なぜ使わないのか?
私はその同修との交流の中で、師尊がすべての大法弟子に佛法の神通と神剣を与えてくださっており、それにより自分自身を完全に守ることができるという共通の認識を持ちました。しかし、私たちはそれを活かし切れておらず、ほとんどの時間で神剣を脇に置き、素手で凶悪なものと戦っているようなものです。あるいは、戦うことさえせず、邪悪に好き放題に迫害させているのです。本文の最初に述べた、魔難の中で長い間苦しんでいる努力を重ねた大法弟子たちも、このような状況にあるのではないでしょうか?
一部の同修たちは、やるべきことが比較的少なく、学法、煉功、発正念の際に比較的静かに行うことができています。しかし、特に多くのことを超負荷でこなしている同修たちにとって、静かに学法し、静かに発正念を行うのは難しい場合があります。また、誰であっても、まだ円満していない限り、人心は存在しています。これが旧勢力が入り込む隙間となります。
師父は法の中で何度も、旧勢力が行っているのは衆生を破壊する法理である、と説かれています。私はそこから一つの認識を持ちましたが、これはあくまで私個人の理解にすぎません。ある次元の旧勢力は、かつての宗教で言われていた「フェニックスの涅槃」のように感じます。一羽のフェニックスが火の中に飛び込み、焼き尽くされて、再び飛び立つことによって鍛え上げられるという考えです。また、旧勢力は新車試験場のエンジニアのようなもので、新車を何度も打ち付け、廃鉄の山になるまで壊してしまうことにも平然としています。彼らが重視しているのは、技術的な数値だけなのです。
私は非常に恥ずかしく感じています。発正念をしっかり行っていなかったことは、大法弟子がすべき三つのことの一つを怠ったことになり、これは大きな漏れです! 慈悲深く偉大な師父に申し訳なく、私たちを待っている衆生にも申し訳ありません。急いでこの隙間を補わなくてはなりません。
最近、同修との交流で次のように認識しました。「『道法』の経文を学んだことで、発正念をしっかり行うことは、大法弟子が修煉を通じて既に完成された面が自らの空間場を正していることを、一つの側面から表しているのではないでしょうか?」
以上、私の最近の修煉体験と共有ですが、不足や誤りがあれば、どうぞ同修の皆さん、慈悲をもってご指摘ください。