文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年12月7日】4月7日、ある年配の同修が明慧の週刊誌を届けにきました。「真相資料を作っている同修のパソコンが故障しました」と、この年配の同修が教えてくれました。 私は「人を救うために使うのであれば、私は応援します。数千元持っていてください」と伝えました。年配の同修は「あなた一人に出してもらうわけにはいかない」と受け取りません。「他の同修はすでに寄付をしたので、それ以上を求めるのはよくないし、それに、一部の同修は経済的に余裕がないから、寄付しなければ心残りがする、寄付したくても持ち合せがない、私はここに用意があるので、どうして他の同修を困らせるのですか?」と私が聞くと、「ダメだ、ダメだ、あなただけに出させるわけにはいかない」と年配の同修は主張し続けました。 私は焦って「どうしてそんなに一点張りなのですか?」と指摘しました。その年配の同修は寛大で、私と口喧嘩になることもなく、何も言いませんでした。 私はすぐに自分が間違ったことを言ったと気づき、慌てて同修に 「ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったんです 」と説明しました。同修は 「大丈夫ですよ」と言ってくれました。その後、この出来事に私は注意を寄せることはなく、内に向けて探すこともしませんでした。 こんな私を見て、師父は心配して、私に直に棒喝を加えてくださいました。
4月9日、叔母が私の店にやってきて、髪を染めるのを手伝ってほしいと頼んできました。染め終わった後、私たちは修煉者の基準に従って切磋琢磨をすることはなく、常人のことでおしゃべりをしました。 おしゃべりをしているうちに、叔母が「もともと、おばあちゃんの食費を全部叔父が出していたのよ。叔父さんは自分の家族ではなく、実家のみんなを大切に思っているのよ」と叔母が愚痴をこぼしました。「叔父は親孝行ですが、おばあちゃんにすべてのお金を与えることはありませんよね?」と私は聞くと、 叔母は 「全部よ 」と答えました。 私は大声で笑い出しました、そのきつい笑いに叔母はさらに怒り、「何がそんなにおかしいの?」と私に聞きます。 私は、「そんなつもりじゃなかったのよ、普通に笑うことが好きなだけ」と答えました。「あなたはそんな心を持ってるのよ、私を笑う心がね!」と叔母は執拗に言いました。 私は自分が間違っていることに気づき、慌てて「それはそうだ、もし夫がお金を全部むこうの母親に渡していたら、私も嫌な思いをすると思うわ」と返しました。 私がそう言うと、叔母は自分の言い分が理屈に合ったかのように「あなたは親と喧嘩したんでしょ ?」と私を責めます。 私は「喧嘩を仕掛けたのは私じゃない、向こうから喧嘩し出したんだ」と私は弁解しました。「自分の母親まで追い出したくせに」と叔母は逆上しました。私は「母を追い出したのではなく、姉が正月に家に連れて帰ったのです」と説明をすると、叔母はますます怒り出し、怒れば怒るほど愚痴がが止まりませんでした。「私は修煉者だから、みんなは私が修煉者であることを利用して、私を責めるのよ」、「私は常人の中で修煉しているのだから、私だって常人の心を持っている、私だって怒るわよ!」とブツブツと心で不平を並べました。
私は、叔母が明らかに法から逸脱していることが分かったので、すぐに自分の考え方を直し、修煉者の立場に立って、穏やかににこう言いました「おばさん、ごめんなさい。私たちは法についてもっと勉強し、もっと正念を発し、もっと内に向けて探す必要があります」。 叔母は私が言ったことをすぐに理解してくれて、「師父が私が向上できるために按配して下さる心性の関を私は乗り越えられず、いつも後悔していたの。 師父がまた按配してくれた時も、またも合格できず、そして後悔する」と話してくれました。「自分の問題点に気づくことができること、足りないところを発見できることは、修煉であり、向上なのです」と、私は叔母を励ましました。
私と叔母二人は顔を見合わせて微笑みました。嵐のような大きな争いが、師父の説法を思い出しながら、法理に基づいた交流の中で穏便に解決されました。
叔母が去った後、叔母は何をそんなに怒っていたのだろうと私は内に向けて深く掘り下げて探してみました。この頃、私は口を修めなかったことが原因だと分かりました。 年配の同修がはるばる私のために資材を届けてくれたにもかかわらず、感謝しないばかりか、「頑固」だと批判して、お年寄りを敬い、幼い者を大事にすることさえできず、師父がかつて言われた「修煉者は何をしても他人のために考えなければならないので」(『カナダ法会での説法』)とは程遠かったのです。
また、叔母が私にいろいろな話をしに来た時、私はもっと理解するべきであり、もっと相談するべきであり、笑うべきではありません、実際、笑うことは場面を区別することでもあり、他人の機嫌が良くて楽しい話をする時は笑うことができ、他人が機嫌が悪くて心の不満を話す時は、笑うことは他人の傷口に塩を撒くことであり、まるで井戸に落ちた者にさらに石を落とすような行為で、人の弱みにつけこんで、痛めつけることであります。 口を修めることに注意を払わなければ、他人を傷つけ、善いことをしていることにはなりません。
師父は以前から、修煉者がどのように口を修めばよいかを明確に指摘されてきました。私はそれをせず、師父の求める基準を厳格に守ってこなかったのです、今後は必ず口を修めて、師父の要求に基づき、実践しなければと思いました。どんなことにおいても人の事を考え、真に他人のためになる生命を目指し、修めていきたいと思います。内に向けて探してみると、私はまだまだ良くない人心をたくさん持っていることがわかりました。例えば、顕示する心、争う心、恐れる心、色欲心、怠慢な心、歓喜心、嫉妬心、恨む心、焦る心、安逸心、面子を保つ心、人に指摘されると不機嫌になる心、自分の人心を隠すために大法を利用する心、などなどです。
私のような意気地なしの弟子を見捨てない師父に感謝を申し上げます。師父、どうか心配しないでください、自分が間違っていることは分かっています。今後は必ず師父の教えを守り、自分に厳しく、師父に言われた三つのこと、法についてもっと学ぶこと、煉功をしっかり行うこと、もっと積極的に発正念をすること、内に向けて探すこと、師父が法を正すことを手伝うこと、もっと多くの世人を救うのを助けること、師父に心配かけないことを必ず実行していきたいと思います。私の修煉の向上を助けてくれ同修たちと叔母に感謝します。