文/中国の大法弟子
【明慧日本2024年12月14日】私は1960年代の後半に小さな山村で生まれました。家庭の環境は普通に良くて、子供の頃からそれほど苦労したことはありませんでした。成人して大手ビール会社に入社しました。人生の前20年間は、何の波風もなく、平凡なくらしでした。90年代前半に結婚した後、私の人生は大きな変化が起こりました。夫は長男で、下には弟と妹がいます。夫は自分の両親から好かれておらず、当然嫁の私もいい扱いを受けなかったのです。
1993年9月末、私は産後休養期間に入りました。その年は非常に寒かったのですが、義理の両親は私に暖房器具を設置してくれませんでした。夜寝るときに鼻先が冷たくても、掛け布団しかありませんでした。義母はそのひと月の間、私の産後ケアをしてくれず、夫の祖母だけが半月間世話をしてくれました。月の後半は自力で家事などをしましたが、どこを触っても冷たく、冷たい風が体に入ってくるのを感じました。産後休養期間が終了してまもなく、私は両手両足がしびれ、痛みが始まり、病院に行ったところ、リウマチだと判明し、産後休養期間にかかった病気だと言われました。この類の病気は治りにくいものです。また、子供が生まれる前は栄養が足りず、低血圧、貧血、めまいなどの症状が出て、座ってもしゃがんでも、立ち上がるとすぐに目の前が真っ暗になり、倒れそうになって慌ててまた座ることもありました。
医師である父は、私を丹念に治療し、薬、注射、スペクトラムアナライザ治療などを処方してくれましたが、どれもうまく機能せず、効果はあまり良くありませんでした。その後、ベッドに横たわると、まるで誰かに足を引っ張られ回されているように感じるほどに進行し、とても辛かったのです。歩くときに力が入らなくなることが多く、つまり突然歩けなくなります。足を動かすために、膝関節が数回カックンカックンと鳴るまで、その場に立ったまま足を動かさなければ歩き続けることができませんでした。今度は、省の大病院に行き、西洋医学でだめなら、漢方医学に行き、さまざまな治療法を試しましたが、それでも効果はありませんでした。また「ハチ療法」も行い、重症の足は4匹、軽症の足を3匹のハチで刺し、膝がかなり腫れ上がり、痛みに耐えられなくなるほどでしたが、何度刺して治療を受けても効きませんでした。仕方なく、お香を焚いたり、占いをしたり、家の風水を見たり、今まで信じていなかったあらゆることを信じようとしましたが、それでもうまくいきませんでした。
若い私を、同僚は冗談で「大きな薬瓶」と呼んでいました。1995年頃、右目がまた涙嚢炎になり、鼻涙管が詰まってしまうため、市立病院で鼻骨の一部を取って、鼻涙管を埋める手術を受けましたが、治らず、そのあとも頻繁に涙を流していました。
1999年の旧正月に、村の誰かが師父の説法のビデオを流し、9日間の講習班が行われ、義父が学習しに行きました。しばらくして、義父の重病が治りました。この事は当時、私たちのいくつかの近隣村で大きな騒ぎを巻き起こしました。義母も法輪大法の修煉を始めました。これは私の身近で起きたことですが、全然動じませんでした。その頃の私は何も信じず、ただ、お金がなければ生きていけない、もっとお金を稼ぐ方法を考えなければいけないと思っていました。それに、義理の両親は私に対して良くないし、2人をまったく信じていなかったのです。
4月に、村の別の家で師父の説法ビデオを放映すると言い、義母とその時に家にいた次姉も「見に行ったら? 病気に効くかもしれないし」と説得してくれました。試す気持ちで、また面目を保つため、私は夫に付き添われ、見に行きました。同じ9日間の講習班だったのですが、初日は見ながら寝てしまいました。私は5、6歳のときに急性脳炎を患いましたが、幸いなことに父がすぐに発見し、一度に40本以上の針を打ってくれたおかげで命が助かりました。その後、頻繁に頭痛がするようになり、そのつど父が針治療をしてくれました。その後、学法を通して、初日聞いて寝てしまったのは師父が私の脳を調整するために、私を眠らせたということを知りました。
当時、私たちは先に煉功して、その後、煉功場で法を学びました。学法するとき、人々は率先して席を譲ろうとしました。私はその光景を見て、「どうしてこの人たちはこんなにいい人たちなんだろう」と思いました。そのときに、私は法を得ました。
その年、家は8千平方メートル以上の小麦を植え、収穫は全部私と夫2人で、手でやりました。私は夫よりも早く刈ることができました。刈り取った後は、小麦の束を5~6束、長い縄で縛り、背負いで運び出し、時には手にも2束持って運びました。小麦のあと、畑にトウモロコシを植えました。秋が過ぎた頃、私は少し驚き、夫に「どんなに仕事を終えても疲れないし、足も痛くないし、眩暈もしないの、完全に治ったわ!」と言いました。私は法輪功を修煉してまだ1ヶ月あまりです。しかし、その時私は大法が人々に修煉を教えるものだということを知りませんでした。体調が良くなり、気分も良くなり、家の事が忙しくなると、学法をやめ、仕事に集中し、事を済ませてからまた学法し始めました。
1999年7月20日、中共が狂ったように大法を迫害し始めました。修煉する環境がなくなったため、私たちはそのまま修煉をやめました。すぐに、元の身体の問題が再発し、あまりにも辛すぎるときに、本を取り出して学び、煉功を続けると、気分が良くなり、すると再び本をしまいます。何度か学んでは止め、同じ状況を繰り返しました。しかし、驚くことに、私が学法と煉功をする限り、身体は奇跡的に良くなるのです。
2001年の旧暦12月25日、私の左顔と左目が腫れましたが、あまり深刻に考えませんでした。2日後、腫れはさらに悪化し、左目は何も見えなくなりました。12月30日の午後、ひどい頭痛が起こり、摘み取られるように痛くなり、夕食さえ食べられませんでした。夕方6時半頃から嘔吐し、目の左下に小さな穴が開き、そこから血が滴り落ちていました。夫は怖くなって、村の医者に来てもらおうとしました。私は自分の状態をよく分かり、恐れていませんでした。嘔吐した後は体が楽になり、頭の痛みも減り、リンゴを半分も食べました。旧正月2日目には左顔と左目がだいぶ良くなり、左目の下に開いた穴も治り、普通に新年の挨拶をするため実家に帰りました。その後、右の鼻腔に異物があると感じ、何度も咳き込み、鼻をかみ、何回も赤と白のポリープまで吐き出しました。手術したとき埋没したチューブから、冷たい風が吹き出すことが多く、とても不快でした。数年後、この状況は徐々に改善され、鼻涙管の位置に違和感がなくなりました。
大法は私の体を浄化しただけでなく、思想まで向上させました。義父は夫の弟を好み、よいものを全部義弟に与えます。義弟が初めて家を買うとき、義父がお金を全額渡し、また夫の祖母にも借金をさせて、私はこのことがずっと気になっていました。その後、私は法を得ましたが、利益を求める心を手放すのは困難でした。夫が私を連れて、同修と交流させました。私はすぐに理解できました。自分はすでに法を得て、体が浄化され、これは何よりも良いことなので、もう争いません、心がすっかり平和に戻りました。
義母の晩年生活は、自立生活ができなくなり、完全な介護が必要になりました。しばらくの間、私は日中1人で義母の世話をしました。義母をお風呂に入れたり、用を足すために体を支えたり、服を洗ったり、おいしい食事を作ったりしました。一度だけ私の家で、義父が義母を支えながらトイレに行こうとしましたが、義母は我慢できずに歩きながら便をもらしてしまいました。義父が大声で私を呼び、私は部屋を飛び出し、義母をトイレに連れて行き、義父が部屋に戻りました。私は義母の体をきれいに洗い、床もきれいに拭きました。義母は感動して私の名前を呼んで、心が優しい人だと言ったことがあります。
大法の奇跡は私の身でさまざまな形で実証されました。その後、私たち夫婦も多くの迫害を受けましたが、大法の真実、美しさ、神聖さは私たちの心の中に根付いており、揺るがすことはできません。