文/悲塵
【明慧日本2024年12月27日】中国では、みんなが知っている済公が結婚式を妨害する物語があります。南宋時代のある日、杭州の近くの小さな村で賑やかな結婚式が行われていました。その時、霊隠寺の済公和尚が食物を求めて通りかかり、目を見張るほど鋭い眼力で、遠くから山の峰が飛んでくるのを見つけました。山は村に向かって落ちてくる様子で、村全員の命が危機に瀕していました。そこで済公は急いで結婚式の現場に駆け込み、村人たちにすぐに村を離れるように伝えました。しかし、村人たちは済公の破れた衣服と狂気じみた様子を見て、彼が場を乱しに来たのだと誤解しました。そこで、何人かの力強い男たちが済公に拳で殴りかかり、彼を地面に倒しました。済公は仕方なく、新婦の前に駆け寄り、新婦を背負って足早に逃げ出しました。村人たちはその様子を見て、狂った和尚が新婦を奪っていくと思い、棒や木刀を持って大声で叫びながら、一斉に済公を追いかけました。
村の外れの広い場所に到着すると、済公は足を止め、追いかけてきた村人たちもそこに到着しました。その時、突然、天が暗くなり、山の峰が天から降りてきて、村に真っ直ぐに落ちてきました。村人たちは驚き、済公が村人たちを救ったのだと分かりました。
普通、和尚が新婦を奪うなんて、世間を驚かせるような荒唐無稽な行動ですが、危機的な状況で、済公が新婦を奪ったのは、勇気と知恵を持ち、命を救うための善行であり、美談となりました。済公は新婦を奪うべきだったのでしょうか? 奪うべきです。奪うことができたのでしょうか? その答えはそう簡単ではありません。済公が新婦を奪うことができたのは、彼が道を得た人物であり、命を救う菩薩の心を持ち、神通力を持ち、救人の心性と能力を兼ね備えていたからです。極端な状況では、型にとらわれず、非常識な方法を取って修行の伝説を作り上げたのです。しかし、もし他の人だったら、どうなるかは分かりません。
もし済公が神通力を持っていなかったら、村人たちに殴られて体中傷だらけになりながら、新婦の前にようやくたどり着き、かろうじて新婦を背負って、足元もおぼつかなく、家の門を出る前に村人に止められたら、結末はどうなるでしょうか? もし済公が神通力を持っていなかったら、速く走れず、村人たちに追い付かれてしまったら、結末はどうなるでしょうか? あるいは、他にも……もし済公が命を救いたいという心があったとしても、その能力がなければ、「新婦を奪う」ことは失敗し、結果は想像に難くないでしょう。社会の道徳に反し、師門の名誉を傷つけ、同道に迷惑をかけ、世間から批判を受けることになります。もっとひどい場合、村人たちを救うことができず、生きとし生けるものが命を落とし、済公自身も飛来峰の下に埋もれてしまうことになったかもしれません。
つまり、済公が新婦を奪うことは、成功することのみが許され、失敗は許されません。もし誰かが済公のように、非常手段を使って人々を救いたいと考えるなら、まず自分自身を修め、慈悲をもって衆生を救い、知恵を備え、必要な修行のレベルに達していることが求められます。もし道行が浅く、救えなければ、批判を受けることになります。しかし、心性が整い、修行が深まれば、救いは必ず成功します。
[修煉者同士の理性的な交流は、通常その時点での修行状態に基づいた認識であり、善意のある交流を通じて共に向上することを目的としています]