文/中国湖北省の大法弟子 心潔
【明慧日本2025年1月14日】
慈悲深い師父、こんにちは!
同修の皆さん、こんにちは!
慈悲深く偉大な師父が、中国大陸の大法弟子たちに毎年一度のネット上での法会で交流する機会をくださったことに感謝します。第21回明慧ネット中国法会にあたり、師父に修煉におけるいくつかの体験を報告し、同修の皆さまと交流させていただきます。
一、法をしっかり学び、物事を法で測る
1996年7月、私はある省都の書店で『轉法輪』を一冊購入しました。毎日熱心に『轉法輪』を読み進めるにつれて、大法の法理に深く心を打たれ、人生の真髄を見出しました。本当に興奮し、この世の何事よりも修煉が最も大切であると感じました。
修煉を始めた当時、私は30代で、ある株式会社で技術職に就いていました。毎日仕事を迅速に片付けた後は、双盤して法を学び、暗誦し、法の要求に従って振舞いました。外出して煉功してから帰宅すると何度も夫に叱られたり殴られたりしました。私は法に照らしてみることで、それは夫が私の業を消す手助けをしてくれているのだと理解し、夫の行為に全く恨みを抱きませんでした。
一度、私の同級生と夫の同級生が我が家で一緒に麻雀をして遊んでいました。夫は同級生たちと付き合って遊び、私は一人で暑い中、火をおこして食事を作り、たくさんの料理を準備しました。食事をする時になって、私は夫にお皿と箸を準備するよう頼みましたが、夫は同級生たちの前で私に平手打ちをしました。その場で私は何も言いませんでしたが、心の中には感情が渦巻いていました。同級生たちは皆、夫の行き過ぎた行為を非難していました。
私はすぐに師父の法を思い出し、急いで感情を整え、同級生たちに説明しました。「夫に手伝いを頼んだ時、私の口調がよくなかったです。不公平な気持ちがあり、修煉者の基準に合っていませんでした。それは私の間違いです。夫が私に平手打ちをしたのは、私に厳しく真・善・忍の基準に従うよう警告してくれたのです。私は彼に感謝すべきです」 すると、一人の同級生が言いました。「本当に殴られても殴り返さず、口答えもしないなんて、あなたは真の修煉者ですね」また、別の同級生が言いました。
「明らかにあなたの夫があなたをいじめたのに、あなたが自分が悪いと言うなんて。この法輪大法はすごいですね」さらに、同級生たちは私が作った料理がとても美味しいと褒めてくれました。
常人社会の中で修煉をしていると、様々な人や出来事に遭遇し、人心が試されることがあります。私は心に大法を抱いているので、法を用いて様々なことに対処することができます。親戚や友人が病気や魔難に見舞われたときには、師父の法を思い出します。「肉親や親友が苦痛に見舞われた時、心が動じるかどうか」(『轉法輪』)。私は、親族が困難に直面するのは業を返していることであり、それは良いことなのだと悟りました。そのため、その情に引きずられることはありません。
また、自分の利益が損なわれたときも、師父の法を思い出します。「現実的な利害の前で、心が動じるかどうか」(『轉法輪』)。今では私はすでに退職していますが、年金は毎月2000元に満たず、自分たちの生活費以外にも、80歳を超える母と義母の生活費を負担しています。私は自分が倹約することをいとわず、二人の高齢者に美味しい食事をさせ、良い服を着てもらうよう心がけています。二人の高齢者は生活の自立ができ、いつも楽しそうにしています。そして彼女たちは人前でいつも「良い娘」「良い嫁」だと私を褒めてくれます。私はこれが大法を修煉したおかげで得た良い評判だと分かっています。
二、法をしっかり学び、常人の観念を変える
常人社会で、人は多くの観念を形成し、その観念に引きずられて自分の言動が支配されていることに気づかないのです。法輪大法を修煉した後、自分の多くの観念が間違っていることに気付きました。それらの観念はすべて自分の利己心や自己中心的な考えを守り、自分が傷つかないようにするためのものであり、根本的な執着を覆い隠していました。具体的には、自分の行為を正当化するための言い訳をしたり、外に向けて求めたり、高い基準で自分を要求しなかったりする形で表れていました。たとえば、時に朝の煉功に時間通りに起きられないことがあり、「今日は気分が乗らない」「昨晩は遅くまで起きていた」「同修のことで疲れて十分に休めなかった」などといった言い訳を自分にしてしまうことがあります。
ここ2年ほど、いわゆる「敏感日」になると、地元の警察署の警官が必ず面会を求めてきます。その際、私はいつも感情的になってしまいます。彼らに真相を話し、真相を伝える手紙も書いたことがありますが、それでも彼らに対して「良くないことをしている」「自分を困らせに来ている」といった観念を抱いてしまいます。そして、「厳しく警告し、彼らを叱らなければならない」という態度を取りがちで、自分を私利私欲に囚われた旧宇宙の泥沼の中に閉じ込めているのです。また、時折「恐れ」の要素もちらつき、このような自己を放下できない思考の悪循環の中で、警官に善意を持って接することができず、彼らを救うこともできませんでした。
大量の学法を通じて、私は理解しました。大法を迫害しているこれらの末端の警官たちは、任務を受動的に遂行しているだけであり、彼ら自身も仕方なく行動している、まさに彼らは自分ではどうしようもない状態なのです。これを思うと、彼らが本当に哀れで、置かれている状況があまりにも恐ろしいと感じました。もし大法弟子が邪悪に隙を突かれ、旧勢力に弱みを掴まれれば、これらの警官は邪霊に利用され、大法弟子を迫害する道具として使われてしまいます。そしてそれが原因で大法に対して罪を犯してしまうのです。悪行をやめない限り、彼らは未来を失うことになるでしょう。
私は、この警察たちに対する認識を必ず改め、彼らとの関係を正しいものにしなければならないと思っています。警察との間に過去どのような因縁があったとしても、法を正す時期の大法弟子として、警官が自分を迫害しに来ていると思ってはいけません。彼らは常人であり、旧勢力に操られて行動しているだけです。一方、私は法を得た生命であり、師父に守られているため、旧勢力の支配を受けず、師父に守られています。そして、私は衆生を救う使命を背負っています。師父が弟子に能力を与えてくださることを私は理解しており、無私で人を思いやる基点に立って、智慧をもって真相を伝えるつもりです。それにより、旧勢力が警官を利用して大法弟子を迫害する邪悪な按排を徹底的に破り、警官が中共邪党に束縛されている状況から解き放され、彼らを救うことができると信じています。
迫害に対する新たな認識を持つようになってから、さまざまな嫌がらせに対しても落ち着いて対処できるようになりました。いわゆる「ゼロ化」キャンペーンの際、以前の勤務先のある局長に電話で真相を伝え、1時間以上話し合いました。最終的にその局長は、私に「署名を要求する」という行為を取りやめ、さらに中共の党・団・隊組織から脱退しました。地元の警察署のある警官と面会した際には、自分で書いた善を勧める手紙を手渡し、直接真相を話しながら「三退」を勧めたところ、彼も喜んで中共の党・団・隊組織からの脱退を決意しました。警官との接触を何度も重ねる中で、自分の観念を改め、彼らとの関係がより融和的なものとなりました。私は本当に彼らを師父の親族だと思うようになりました。
三.法をしっかり学び、内に向かって探す
地元の学習者の中で、私は年齢が少し若く、学歴が高く、また数々の困難を乗り越えてきました。三つのことを自分一人でもできるので、一部の同修たちは私に非常に依頼するようになりました。私は同修の要求に無条件で協力し、物事を進めることは順調でした。
しかし、ここ2年の間に、一部の同修に不適切な状態が見られることに気付きました。一部の高齢の同修の中には、真相を伝えることには積極的であるものの、個人修煉においていくつかの隙がある場合もあります。ある80歳近い高齢の女性同修は、何年も前から明慧ネットにアクセスでき、毎日学習者たちの交流文章を読んでいました。しかし、最近はしばしば明慧ネットにアクセスできなくなり、何度も私を呼んでコンピュータを確認させました。私が彼女の家に行くたびに、すぐに明慧ネットにアクセスできるのですが、私が帰った後になると、またウェブページが開けなくなるという状況が何度も繰り返されました。その結果、私の時間をかなり取られることになりました。学法を通じて、自分が同修の依存心に引きずられていることに気付きました。同修がネットにアクセスできない問題も、私自身が修めるべき課題であると悟りました。私はもはや同修がネットにアクセスできるかどうかに執着せず、彼女に「正念を持ち、正しく行動すれば、越えられない障害はない」と励ましました。するとその後、この高齢の女性同修が私を頼ることはほとんどなくなり、自分で時間をかけて封鎖を突破するようになりました。彼女は「正念が強い時には、明慧ネットにアクセスできる」と話していました。
また、86歳の女性同修で、学歴が高くない方がいました。私のサポートを受け、自宅に小規模の真相資料作成拠点を設立しました。何年も経ちましたが、この同修は真相資料の印刷を完全に独立して行うことができず、しばしば私に間違ったページの印刷を直してもらったり、真相資料をダウンロードしてもらったり、消耗品を購入してもらったりしていました。年齢が高いにもかかわらず、真相を伝えることに熱心な同修を見て、私は同修が求めていることに応じて即対応していました。
中共の「ゼロ化」迫害キャンペーンの中で、この高齢の同修は何度も嫌がらせを受け、恐れや疑念の心を抱き、真相資料を作ることを恐れるようになり、家から出ることすらできなくなりました。私は、この同修の状態が自分と関係していると感じました。普段から同修の言うことに従いすぎたために、同修の依存心を増長させ、困難を克服する意志を弱めてしまったのではないかと思ったのです。私は内に向かって自分を探し、もし自分が本当に同修に責任を持っているならば、同修が修煉の中で直面するあらゆる問題に正念で対応できるようにすべきだと気付きました。同修が引き受けるべきことを自分がすべて請け負ってしまうと、かえって同修が正念で困難を突破するのを妨げることになります。私はこの高齢の同修に、内に向かって自分を探し、依存心を取り除き、もっと法を学び、師父に加持を求めるよう励ましました。そして必ず困難を乗り越えられると伝えました。私が手を引いたことで、この同修は師父の見守りの下で心態が安定し、独立して真相資料を印刷できるようになりました。
同修たちからの信頼のおかげで、多くの同修が私と交流したいと願っています。同修Aさんは私の前で心を開き、どんなことでも遠慮せずに話してくれ、私に早く精進できるよう手助けしてほしいと言いました。最初、私は同修Aさんと法に基づいて交流をしていましたが、次第に同修Aさんは家事や家庭内の問題についても私に解決策を求め、アドバイスをもらうようになりました。最初、私は同修Aさんの家庭問題に対してアドバイスをすることを喜んでいました。同修Aさんも私が言った通りに家族に接したら効果があったと言っていました。しかし、私は座禅の際に静かになれず、同修Aさんの家事のことが頭に浮かぶことがありました。心を静めて学法しているうちに、自分が間違っていたことに気付きました。同修のことを引き受けすぎることは、本来の役割を越えてしまっているということです。修煉の視点から見れば、それは同修が心性を高める機会を奪っていることになり、真の助けではなく、逆に同修を害してしまっていることに気づきました。私はやっと悟りました。同修Aさんの具体的なことにアドバイスをするのではなく、法理に基づいて同修に注意するようにしました。同修Aさんにもっと法を学ぶように勧め、問題が起きたときには法に照らして自分を探し、外に求めないようにと伝えました。次第に、同修Aさんは自分で修煉することを学びました。
次に、同修の情に流された経験についてお話しします。同修Bさんはバイクに乗ることができ、私は彼女と一緒に田舎へ真相資料を配布しに行ったり、面と向かって三退を勧める活動をしたりしていました。その結果はとても良いものでした。しかし、ある日、同修Bさんは翌日に田舎へ行く予定だったにもかかわらず、その日の午後に出発したいと言い出しました。私は「明日行くと決まっていたのではないですか?」と聞きましたが、同修Bさんは「同修Cさんの家に資料が多すぎるので、すぐに配布したい」と主張しました。私は「真相資料がまだ完全に準備できていないので、明日にしましょう」と提案しましたが、同修Bさんは聞き入れず、その日の午後に出発することを決めました。
同修Bさんは物事を迅速にこなし、苦労を厭わない人です。彼女はすぐに同修Cさんから真相資料を受け取って、私と一緒に配布しようと提案しました。私はあまり乗り気ではありませんでしたが、同修Bさんのバイクに乗り込みました。市区を少し出たところで、同修Bさんは早速資料を配り始めました。
「この辺りは何度も配ったことがあるので、もっと遠い郊外に行ってから配ろうよ」と私は言いましたが、同修Bさんはどうしても配布したいと言い、一枚配布しました。数メートル歩いてから、同修Bさんはもう1つの資料を配ろうとしましたが、私は「ここでは配らず、まず真相の手紙を郵送してからにしよう」と言いました。しかし、同修Bさんは聞かず、市街地近くで資料を配ろうとしました。私はあまり議論せず、もしもっと言い争えば喧嘩になるだけだと感じていました。結局、3枚の真相資料を配った後、警察車両が私たちの後ろから追いかけてきました。私たちは地元の公安局に連行されました。私と同修Bさんは正念を持って正しく行動し、邪悪な迫害を突き破りました。数時間後、私たちは無事に家に帰れました。
後で私は今回の迫害の原因を詳しく調べ、気づきました。真相を伝えて人々を救うことは非常に神聖なことであり、非常に純粋な心で行わなければならないのに、どうして強い執着心を持って行うことができるのでしょうか? 同修Bさんは同修Cさんの家に資料が多いことを心配し、安全ではないと考え、すぐに配布しようとしましたが、その心は純粋だったのでしょうか? 私は同修Bさんの状態が正しくないことを知りながら、それに従って行動しました。しかも、あまり乗り気でない状態で人を救う仕事をしたことは、修煉に対して責任を持っていないことを示し、衆生に対しても責任を持っていない表れでした。心が正しくなかったために引き起こした今回のことを思い出す度に、胸が痛みます。私は20年以上修煉してきた古い大法弟子です。そのように理性を欠いた行動をしていたことに、心から警鐘を鳴らさなければなりません。師父の法を正す進展は既に終盤を迎えており、私は自分自身を戒めました。執着を修め、法をしっかり学び、大法に同化し、新しい宇宙へと帰るために努力しなければなりません。
師父のご恩に感謝いたします、!
同修の皆さんに感謝いたします!