【明慧日本2025年1月30日】リー・ハーヴェイ・オズワルドは1939年にニューオーリンズで生まれ、1963年11月22日にジョン・F・ケネディを暗殺した。暗殺の2日後、ナイトクラブのオーナーであるジャック・ルビーが、11月24日にダラス警察本部の地下でオズワルドを射殺した。
1964年9月に発表されたウォーレン委員会の最終報告書によると、オズワルドは大統領に3発の銃弾を発射した。2発目と3発目の銃弾が大統領に命中し、3発目が致命傷となった。
60年以上が経過した今でも、多くの人々は依然としてオズワルドがなぜそのような行動をしたのか理解していない。本記事では、共産主義がオズワルドに与えた影響と、彼がソ連に亡命した経緯を振り返る。
オズワルドは通常の家庭生活を送ることができなかったため、幼少期に学校を頻繁に中退した。1956年に海兵隊に入隊した後、彼は優れた成績を収め、200ヤード先の標的を正確に撃つことができた(半人型射撃テストを含む)。同時に、彼は寡黙で、明らかに親ソビエト的で、親共産主義の傾向があった。
彼の日記によると、オズワルドは環境を変えたいと考え、1953年に社会主義文学と出会った。16歳の時、アメリカ社会党に宛てた手紙の中で、青年社会主義連盟について尋ね、社会主義の原理を「優に15か月以上」勉強してきたと書いている。
オズワルドは1959年9月、母親の介護が必要だとして海兵隊を早期退役した。しかし、母親の元に2日間滞在した後、ニューオーリンズを離れ、迂回を繰り返しながら1か月後に観光客としてモスクワに到着した。
オズワルドは自分が共産主義者であり、ソ連国籍を取得する意思があると宣言したが、ソ連当局に拒否され、手首を傷つけて自殺を図った。退院後、彼はモスクワの米国大使館に行き、米国国籍を放棄した。ソ連当局は彼の要求を認め、ミンスクで月給約700ルーブルの電気技師として働けるように手配した。
それでも、オズワルドはソ連当局の信頼を得られなかった。彼の自宅は厳重に盗聴され、彼の通信は繰り返しチェックされた。ソ連国内での彼の行動はすべてKGBによって監視されていた。間もなく、オズワルドはベラルーシ人女性のマリーナ・プルサコワと結婚した。
ソ連で本格的な経験を積んだ後、オズワルドは1962年6月に妻と娘とともに米国に戻り、定住した。死の直前、夫妻はちょうど2人目の娘を出産したばかりだった。オズワルドは共産主義を宣伝するビラを頻繁に印刷して配布しており、その結果、警察や記者とやりとりしなければならないこともあった。
オズワルドはソ連に亡命した唯一のアメリカ人ではなかった。共産主義者の目には、すべての亡命者、特に旧敵国である米国からの亡命者は、たとえ価値があったとしても疑いの目で見られる存在だった。共産主義への情熱は強くても、これらの人々はソ連に亡命した後、悲劇的な人生を送ることになった。
1957年にインディアナ州で生まれたアメリカ人船員のグレン・マイケル・サウザーは、若い頃からロシア文化に魅了され、ロシア語とロシア文学も学んだ。時が経つにつれ、彼のロシアへの愛着は徐々に共産主義への賛同へと変化した。1975年にアメリカ第6艦隊の「USSニミッツ」に乗務していたとき、サウザーは自ら率先してKGBの内部協力者になることを申し出た。それ以来、彼はアメリカ海軍の機密情報をモスクワに継続的に提供した。
KGBの手配により、サウザーは1986年5月にイタリアに「休暇」に行き、そこからソ連の飛行機に乗ってソ連に渡った。オズワルドと違い、サウザーは無事にソ連国籍を取得した。さらに、少佐の階級を与えられ、KGBで働き、モスクワ国立大学の教授と結婚した。サウザーはかつてソ連とその無償教育制度、国民皆保険制度などを称賛していたが、後にソ連が深刻な物資不足に陥り、人々が官僚主義に不満を抱いていることを知る。
1989年、東欧が共産主義を放棄する中、32歳のサウザーは自宅のガレージで一酸化炭素中毒により自殺した。
数学のバックグラウンドを持つ暗号学者ウィリアム・H・マーティンは、日本において米海軍の暗号学者として勤務し、1957年に国家安全保障局(NSA)に入局した。NSA入局後、彼は当局の慣行の一部に不満を抱き、苦悩に陥った。1960年6月、29歳のマーティンは3週間の休暇を与えられた。彼はNSAのもう一人の暗号学者バーノン・F・ミッチェルとともに米国を離れ、ソ連の貨物船に乗った。1か月後、マーティンはモスクワで記者会見に出席し、亡命とソ連国籍を求めてソ連に亡命したと語った。
マーチンはロシア語を流暢に話すことができ、すぐにロシア名を名乗り、ソ連の女性と結婚したが、結婚生活は3年しか続かなかった。彼は亡命が「無謀」だったことを公に認めた。ソ連がマーチンを疑っていたため、彼は雑用しか得られず失望した。彼はまた、USSRやSoviet Lifeなどのプロパガンダ出版物に惑わされて亡命したと周囲に語った。
その後、マーティンはなんとかソ連を脱出し、1987年1月にメキシコで癌のため亡くなった。最終的に、彼の遺体は彼が捨てた故郷に埋葬されることが許された。
「TikTok難民」を自称するアメリカの若者たちのネット投稿を読んで、私はオズワルドの話を思い出した。彼らのうちの一人は、動画の中で共産主義と中国共産党(CCP)が大好きだと叫び、共産主義中国は「世界で最も透明性の高い国」だと主張していた。また別の若者は、迷わず中国共産党を選び、米国の軍艦を全て破壊させても構わないと語っていた。これは、米国への移住を何十年も待ち望んでいた中国人にとっては理解できないことだった。彼らのうちの一人は、「彼女はすぐに中国に移住すべきだ」と返信した。
人生で得たものを大切にするには、家庭や学校での適切な教育が必要なのだ。しかし、若い世代の多くは、生涯を通じてデジタルメディアやスマートフォンに囲まれてきた。中には、正常な家庭教育を受けていない人、伝統の美しさを学び、理解する機会がなかった人、現実の世界をあまり経験していない人もいる。言論の自由がある国で育った彼らは、共産主義の欺瞞、支配、鉄拳を味わったことがない。
幼稚園から大学まで「目覚めた文化」の影響を受けて、親との関係が悪化し、伝統的な価値観を軽蔑するようになった子供もいる。性転換手術を親が支持しないことを理由に公然と親を非難する子供の動画や、スパイウェア同然のアプリがアプリストアから削除されたことで自国への憎悪をぶちまける極左の若者の動画もある。こうした憎悪と暴力は、中国の怒れる若者、中国共産党支持の小粉紅(ピンクちゃん=愛国主義キッズ)、五毛党(インターネット世論誘導集団)、その他の共産主義の産物に共通する特徴だ。
ソ連に亡命した人々は、後にその選択を後悔し、共産主義下の現実の生活はプロパガンダで描かれたものとは異なっていたことを認識したが、彼らにとってはもう手遅れだった。同じ課題に直面している若い世代にとって、おそらく必要なのは、共産主義の毒の種ではなく、(気まぐれを甘やかすことなく)彼らを見守り、健全な家庭環境と伝統的な道徳的価値観を促進する社会なのかもしれない。