文/中国の大法弟子
【明慧日本2025年2月4日】私は1998年に法を得た大法弟子です。修煉を始める前は、頭痛や心臓病、鼻炎などの持病がありました。しかし、学法を始めた後、これらの病はすっかり消え、体が軽くなったように感じました。
1999年7月20日、中国共産党(以下、中共)が迫害を開始しました。私は北京へ陳情に行きましたが、それ以降、中共の「敏感な日」になるたびに、不法な者たちが私を脅かすようになりました。2010年には地元で大規模な違法逮捕が行われ、警察が家に押し入りました。その際、彼らは何冊かの『明慧週刊』と大法の書籍を見つけました。私はその瞬間、「誰にも大法の書籍を動かさせない」と強く念じました。すると、警察はまるでそれらが見えなかったかのように、何も持ち去らずに立ち去ったのです。
ここでは、私が修煉の中で正念を強め、人心を取り除いたいくつかの体験をお話しします。
発正念の力を実感する
私は心を閉ざして修めており、以前は自分の正念が弱く、エネルギー場を持っていないと感じていました。発正念をしても集中できず、つい気が散ってしまうことが多かったため、発正念に対して自信を持てませんでした。
しかし、『明慧週刊』を読んでいると、同修たちが強い正念を持っていることを知り、「私にもできるはずだ」と思いました。そこで、学法に励み、より多くの法を学ぶことを決意しました。師父の各地での説法も積極的に学びました。
その後、私たちは横断幕を掛けたり、小冊子を配ったりする活動を始めました。外へ出るときは常に正念を発し、「邪悪に邪魔をさせない」、「電信柱よ、横断幕を守り、誰にも触れさせないで」と念じました。すると、本当にその場所に掛けた横断幕の「法輪大法は素晴らしい」、「真・善・忍は素晴らしい」は誰にも取り除かれることなく、長い間そのまま残っていました。
この経験を通じて、私は自分の正念が強くなったことを実感しました。そして、それはすべて師父が弟子を助けてくださったおかげであると心から感じています。
師父は『轉法輪』で、「『佛性がひとたび現われると、十方世界を震わす』という言葉があります。覚者がそのような人を見ればひとしく救いの手を差し伸べ、無条件に助けてあげようとします。佛家では、人を済度するにあたって、条件を言わず、代償を求めず、無条件に助けるということなので、われわれも学習者の皆さんに多くのことをしてあげることができるのです」と説かれています。
正念で病業の関を乗り越える
2014年、私は小さな商売を始めました。しかし、そのために修煉への精進が足りなくなってしまいました。
そして2021年の3月、市場で商売をしていたある日、突然体調が悪くなりました。頭が膨張するような感覚があり、全身に力が入らず、やむを得ず家に戻りました。帰宅後、すぐに横になりましたが、翌朝目覚めると体の半分が動かなくなっていました。さらに、トイレに行こうとしても間に合わず、失禁し尿が足を伝って床に流れてしまいました。
娘はこの様子を見て泣き出しましたが、私は落ち着いて娘に「泣かないで。お母さんは大丈夫。師父が見守ってくださっているから」と言い聞かせました。そして夫には「すぐに同修のところへ行きたい」と伝えました。我が家には車があったので、夫が私を車に乗せて同修の家へと連れて行ってくれました。
同修の家に到着すると、夫はそのまま帰宅しました。ちょうど別の同修が使っていない家を持っていたため、私はそこに滞在することになりました。同修が車を降り、庭から車椅子を持ってこようとしましたが、その時、私は心の中で「私は修煉者なのに、どうして車椅子に乗らなければならないのか? 自分の足で歩くべきだ!」と強く思いました。
そこで、全身の力を振り絞って車から降りようとしました。しかし、「ドスン!」と音を立てて、私は道路脇の草むらに倒れてしまいました。
その時、同修が戻ってきて、私の全身に枯れ草がついているのを見て驚き、「どうして待たずに降りたの?」と尋ねました。私は「自分の足で歩きたかったから」と答えました。同修は笑いながら私を見ましたが、その表情はまるで「あなたの考えは正しい」と励ましてくれているように感じました。
そこでは、私は生活のすべてにおいて同修の助けを必要としました。そのため、なるべく手間をかけないようにと、水を飲む量を減らし、食事も控えめにしました。そうすればトイレに行く回数が減り、同修に迷惑をかけずに済むからです。しかし、水分を控えたことで口内に水ぶくれができてしまいました。それでも、私は耐えながら、できる限り多く発正念をし、煉功し、学法を続けました。
そして、3日目のことです。突然、足の指がピクッと動いたのです。それから、壁を支えにしながら、少しずつ自分でトイレに行けるようになりました。
私は喜びのあまり、「私はもう大丈夫! 歩けるようになった! 師父、弟子を加持してくださりありがとうございます!」と心の中で感謝しました。こうして、1カ月ほどの滞在を経て、私は自宅へ戻りました。
帰宅後、私は商売をやめ、利益への執着を手放しました。そして、毎日学法と煉功に励むようになりました。その結果、我が家で資料拠点を設立することができました。
普段の生活では、常に真相紙幣を使うようにしています。さらに、商売をしている人たちにも真相紙幣を両替して渡しています。彼らは、かつて私が商売をしていた頃に真相を伝えた人たちで、今では喜んで受け取ってくれます。また、毎年配布される真相カレンダーも、私は同修たちに欠かさず届けています。どんな天候でも、それが風雨にさらされる日であっても、私は使命として続けています。
怨恨の心を取り除く
私はとても頑固な性格で、一度正しいと思ったら決して譲らず、たとえ自分が間違っていても、他人に指摘されるのを許せないところがあります。
夫も修煉者で、彼は師と法を深く信じ、師父がよく彼に悟らせてくださることがありました。例えば、『大圓満法』を読んでいるときに、師父の法像が動いて見えたこともあったそうです。彼は普段、外の人にはとても親切なのですが、なぜか私には厳しく接することが多く、私はそれが納得できませんでした。
私は短気な性格で、腹が立つとすぐに怒ってしまいますが、泣き虫でもあり、少しでも自分が傷ついたと感じると涙がこぼれてしまうのです。闘争心、怨恨心、そして他人に指摘されたくないという心が抑えきれず、夫と言い争うことが何度もありました。しかし、言い争った後には、師父の法が頭をよぎるのです。
「修煉する人 自らの過ちを探し 各種の人心、取り去ること多し 大小の関、落さんと想ふべからず 正しきは彼 間違いは私 何を争ふものか」(『洪吟三』「誰が是 誰が非」)
師父の説法が私を目覚めさせました。私が腹を立てていたのは、結局のところ闘争心、怨恨心、そして他人に指摘されたくないという心ではないでしょうか? 私は「真・善・忍」を修めているはずなのに、「善」はどこにあるのでしょうか? 私は本当に修煉者なのか? こんな状態で、師父の慈悲なる救度に報いることができるのでしょうか?
それ以来、私はより多く法を学ぶことを決意しました。学法を重ね、発正念を増やし、自分の背後にある良くない思想や観念を清めるよう努めました。何か出来事が起きたときは、まず自分自身を振り返るようにし、そして、相手の良い面を見るよう心がけました。常に「自分は法の基準に沿っているのか?」と問いかけたのです。今では、私たち夫婦は共に精進しながら、師を助けて正法の道を歩んでいます。そして、いつの日か師父と共に天へと帰れることを願っています。