文/中国の大法弟子
【明慧日本2025年2月5日】数日前、『明慧週刊』を読んでいた時、ある記事が私に大きな衝撃を与えました。
その中の一節を読んで、特に心に響いたのは次の部分です。
「師父は最大の慈悲で、救いが可能なすべての生命――善良さを保つことのできる生命を救っています。一方、学習者にとっては、絶え間ない努力で精進し実修し、『真・善・忍』という大法に溶け込むのか、それとも大法を利用し、『真・善・忍』を一種の哲学理論や『安全な』生活スタイルとして捉えるのか、それによって正法に対する信念の程度が表れます」
この部分は、私の心に「グサリ」と響きました。「真・善・忍」を一種の哲学理論や「安全な」生活スタイルとして捉える――これまで私はそんな風に考えたことは一度もありませんでした。しかし、この言葉は私の核心部分に触れたのです。
私は身体の問題がきっかけで法を得たわけではありませんでした。初めて『轉法輪』を読んだ時、「多くの人は長年の煉功を経てきていますが、煉功したことのない人もいます。ところが彼の一生の中に真理や、人生の真諦に対する追求があり、思索があります」(『轉法輪』)という一節に出会い、強い共感を覚えました。それはまさに私自身のことを言っているようでした。
長い間、私は自分が純粋な心で入門したと思い込んでいました。関に直面した時も、自分の根本的な執着を深く探ってみましたが、特に問題を発見することはできませんでした。しかし、正法の修煉においては、自分の向上が非常に遅いと感じていました。長い間、個人修煉の境地を抜け出せず、ただその場をぐるぐると彷徨っているような状態でした。北京に行ったこともあり、江沢民を告訴したこともありましたが、それでも修煉の状態は良い時もあれば悪い時もあり、いつも力不足を感じていました。心の中では何度も師父に「弟子に正念を加持してください」と祈り続けていましたが、自分の言動を法に照らして採点すると、一体何点取れるでしょうか? 実際は、とても低い点数だったのです。
「恐怖心」を取り除くのは非常に難しく、三つのことも、なんとか形だけは行っているものの、満足できるレベルには程遠い状態でした。
しかし、ついに自分の根本的な執着を見つけた時、突然すべてが腑に落ちました。
私は「真・善・忍」を一種の哲学理論として捉え、それを「安全な」生活スタイルとして利用していたのです。以前、周りの同修たちが大きな関や試練を乗り越えられず、旧勢力に命を奪われたり、プレッシャーの中で「転向」させられてしまったのを目にするたびに、その原因を分析していました。そして、いつも気づくのは、彼らが根本的な執着を取り除けなかったことでした。大法から何かを得ようとする心が旧勢力に利用され、厳しく淘汰されてしまったのです。そのような場面に出会うたびに、私は自分自身を省みて、「私には根本的な執着はない。『真・善・忍』に従って自分を律することは、私自身が必要とすることであり、大法を修煉できること自体で十分満たされている。他に何かを求めることはない」と自分に言い聞かせていました。
真相を伝える際、私はよく人々に「私が大法を修煉することで、どれほど健康になり、家庭がどれほど円満になり、どれほど良い人になったか。そしてその結果、周囲からどれほど称賛されたか」と話していました。それが法を実証することだと思い込み、何の問題もないと信じていました。しかし、今日ふと気づいたのです。それこそが私の心の奥底にある本当の認識であり、私が大法を利用していたという事実を暴露していることに気づきました。実際、私は確かに「真・善・忍」を一種の哲学理論として捉えていました。そして、「真・善・忍」に基づいて修煉すれば、健康な体や円満な家庭が得られることを知り、それは私の求めていた「安全な」生活スタイルだったのです。さらには、常人としての「善行や幸福」に満足していたのだと気づきました。
しかし、常人から「法を正す時期の大法弟子」としての最終的な圓満に至るまでには、無数の段階が存在します。それぞれの段階においてその基準を満たすことで、初めてその段階の法に同化し、次の段階に進む資格を得られるのです。層を超え、さらにその次の層を超えていく……。それなのに、この20年以上の間、私はただ常人の中で「良い人」としての修煉に留まっていました。これでは「法を正す時期の大法弟子」としての使命と責任を果たすことなど到底できないと痛感しました。
自分の根本的な執着を見つけた時、私の心は非常に晴れやかになり、たとえ気づくのが遅かったとしても、「気づけた」ことが何より大切だと感じました。師父はこう仰っています。「大法弟子の偉大なることは宇宙で法を正すことと結び付いており、皆さんの最大の使命は法を守ることです」(『各地での説法二』「米国フロリダ州法会での説法」)
この「大法を守る」という言葉を読んだ時、私は無限の荘厳と崇高さ、そして揺るぎない確信と安らぎを感じました。それは、25年前、北京で陳情するかどうか決断を下す際に感じた葛藤と逡巡とは全く異なるものでした。当時も、師父の絶え間ないご加護のおかげでここまで歩んで来ることができました。そして今も、法の中で修め、向上を続けているのです。
中国の大法弟子として、さらに努力して「三つのこと」をしっかり行うことに加えて、正念を強め、悪を取り除くことが特に重要だと理解しました。私たちはアメリカにはいませんが、それでも正邪の大戦の戦場に立っています。その責任は決して他の誰かが代わることのできない、私たち自身の使命なのです。