文/四川省の大法弟子
【明慧日本2025年2月11日】交流の文章の中で、よく同修が自分の取り除くのが難しい「執着」を「根本執着」と呼んでいるのを見かけます。もし『精進要旨二』の「圓満成就に向かって」を読めば、師父が法の中で説かれている「根本執着」には、特定の内包があることがわかります。第三段落にそれが非常に明確に述べられています。
「大法が自らの科学の観念と符合していると思う人がいれば、自らの人としての道理に符合していると思う人もいます。自らの政治に対する不満と符合していると思う人もいれば、大法が人類の腐敗堕落した道徳を救えると思う人もいて、大法が自分の病気を治すことができると思う人もいる、大法と師父の品行が正しいと思う人もいる、等々です。人間が世間においてこれらの心を抱いて、素晴らしい追求と願望にあこがれるのは間違いではありませんが、修煉者としては、それではいけません。ですから、あなたがこのような考えの働きかけのもとで大法の門に入ることはかまいませんが、修煉していく過程で自らを修煉者と見なし、今後、本を読み、法を学んで精進していくうちに、自分が入門した時、どういう考えで大法に入ったのかを、はっきりと見分けなければなりません。修煉してしばらく経っても、まだ当初の考えのままなのでしょうか、人間のこの心が、自らをここに留めさせているのでしょうか? もし、そうであれば、わたしの弟子とは言えません。これはすなわち、根本的な執着心が取り除かれておらず、法の上から法を認識できていない、ということです」
「自己が入門する時の考えは何だったか」という問いについて——この入門時の考えこそが根本的な執着心です。ほとんどの人は大法の修煉を始める際に、常人的な考えを基にしているのであって、修煉を通じて法に同化し、常人を超越して最終的に圓満成就を達成し、新しい宇宙に帰るという目的を基にしていません。
入門時のそのような常人の考えが取り除かれず、執着を放棄しなければ、根本的な執着の基点から修煉を行うことになります。もし、基礎が正しくないのなら、上に建てられた家は堅固で、純粋で、順調に完成することができるでしょうか?
【修煉者同士の理性的な交流は、通常その時の個人的な修煉状態における理解であり、善意の交流を通じて共に向上することを目的とします】