文/香港の大法弟子
【明慧日本2025年2月13日】師父は新経文『肝心な時に人の心を見極めている』の中で、「プロジェクトの内部で撹乱しているのは『誰』ですか? 神々は見ており、旧勢力も赤い魔も見ています」と説かれました。
私はこのプロジェクトに関わって十数年になります。その間、メディアプロジェクトが「取り締まり」や「消滅」の危機に瀕しながらも、奇跡的に「再生」する過程を目の当たりにしてきました。その一歩一歩が、まさに緊迫した瞬間の連続でした。今、何とか存続することができましたが、これからの道をどう歩んでいくべきかを深く考えなければなりません。
2024年8月、香港のある衆生を救うプロジェクトも、ほぼ取り締まりを受け、消滅の危機に直面しました。十数年間、印刷を請け負っていた新聞工場も閉鎖されました。
しかし7月、新たに就任した総裁がこの危機的状況の中で「決定的な一手」を打ち、9月にはプロジェクトが再生しました。しかし、メディアは長年にわたり多くのダメージを受け続け、今はまるで崩れ落ちそうな状態で、本当に心配でなりません。
こうなってしまったのは、プロジェクト全体の取り組みに問題があったからです。私たちは、師父の慈悲深い救い済度に対して本当に申し訳ない思いです。このプロジェクトに携わる同修は、師父の法を学んでいるのですから、本来どうすべきかを知っているはずではないでしょうか。
師父は、こう説かれました。「実はいつも、何かの商売をして大紀元をサポートしたり、何かの投資をしたりして大紀元の経済負担を減らそうと考えている人がいます。考えは間違っていません。私が言いたいのは、それならなぜ、方法を考えて大紀元そのものを良くしようとしないのでしょうか? 本当にそこまでできたら、何でも解決されるのではありませんか?」(『各地での説法十』「大紀元会議での説法」)
しかし、私たちは師父が示してくださった修煉の指針に従わず、大きな過ちを犯してしまいました。
9年前、当時の責任者がプロジェクト内で別の会社を立ち上げ、結果としてメディアに関わるすべての人的・物的リソースがそちらに流れてしまいました。その会社は、大規模な展示販売会を何度も開催し、店舗を開設しました。「5年以内に香港で上場する」「100店舗を展開する」「香港の同修全員が経営者になれる」といった話が広まりました。また、「この会社は正式に認められたプロジェクトであり、衆生を救うプロジェクトのすべての経費を負担している」との噂も流れました。
その会社に雇われていたのはすべて大法の修煉者であり、「稼いだお金はすべてプロジェクトに回される」と主張していました。同修たちは、その会社に全力を注ぐことが「忠誠」だと信じ込み、自分の貯蓄を使って大量にその会社の健康商品を購入しました。それによってメディアの運営を支援した気になり、自らを納得させていたのです。
メディアに携わる人員が最も充実していた時期には、メディアの営業職だけでも数十人がいました。その当時は、メディアの発展に大きな希望が持てる状況でした。しかし、責任者がその会社の発展ばかりに注力した結果、新聞の発行部数は次第に減少しました。数名のメディア営業担当が契約を取ってきても、会社側は突然「新聞の発行部数を減らす」「配布を中止する」と決定し、顧客対応を営業担当者に丸投げしました。その結果、専任の営業担当3人のうち、2人が会社を去らざるを得ませんでした。
20年以上続いたメディアが、一時は消滅寸前に追い込まれたことを思い出すと、今でも背筋が凍る思いです。長年メディアに携わってきた同修たちは、これからどうすればいいのでしょうか? 修煉の未来はどうなるのでしょうか? それでも、慈悲深い師父がこの損失を挽回してくださり、多くの弟子たちが再びメディアの場で修煉し、衆生を救う機会を得ることができました。私たちは、どのように師父の恩に報い、これからの道を歩んでいけばよいのでしょうか?
師父は、「特にこの状況下で皆心を同じ方向に向かわせ、法を最優先にし、修煉者の基準で自らを律し、人を救うためのプロジェクトが損害を受けず難関を乗り越えるようにすることこそ修煉者としてのあるべき姿です」(『肝心な時に人の心を見極めている』)と説かれています。
現在プロジェクトに関わっている同修たちが「大法を第一に」し、一体となって救人プロジェクトの発展に集中することを、心より願います。どうか、メディアを危機に陥れた「○○会社」に未練を抱かないでください。プロジェクトで正念を失ってしまえば、それはまるで長年檻の中に閉じ込められていた鳥が、いざ解放されても自力で餌を探せないようなものです。その機会を失ってしまえば、師父の慈悲を裏切ることになり、同修たちの支えや助けを無駄にすることにもなります。そして、救われることを願いながら待っている香港の衆生の期待にも応えられなくなります。
師父は、「人間が最も放下し難いものは観念であり、甚だしい者は、偽りの理のために命を投げ出しても変えようとしませんが、この観念自体は後天的に形成されたものです。人は自ら考えることもせず、それどころか、惜しむことなくすべてを投げ出しても、疑問を感じないその考えを自らの考えと思い込み、真理を目にしても排斥してしまいます。実のところ、人間は先天の純真さ以外、一切の観念はみな、後天的に形成されたもので、自分ではないのです」(『精進要旨』「誰のために存在するのか」)と説かれました。
メディアに関わる大法弟子は皆、今この瞬間にも試されているのです。どうか、同修の皆さんがしっかりと法を学び、この最後の時に、大法の中へと真に歩み入ることを心より願います。
師父はすでに、大法は誰にも乱すことはできないと、私たちに教えました。乱れるのは、いつも内部の弟子たちです。しかし、心に法を持ち、黙々と法を師とし、修煉の向上に励み、自らの使命を果たしている人は、誰にも動かされることはありません。
最終的な結末は、すべて自分自身が決めるものです。大審判の時、神の前でどんな言い訳や説明が通用するでしょうか? 何一つ通用しません。この人生で、時間と精力を何に費やしたのか? 善悪も、正邪も、すべて「真・善・忍」によって測られます。人は皆、生まれる前に交わした神聖な誓約を果たしたのかどうか、一目瞭然なのです。これは、法を正す時期の大法弟子にとっては常識とも言えることでしょう。
【修煉者同士の理性的な交流は、一般的に、その修煉者がその時点で修煉を通して得た認識に基づいたものであり、善意を持って交流し、互いに向上することを目指すものです】