文/中国の大法弟子
【明慧日本2025年2月16日】以前から、我々の地域の大法弟子は全体としてまとまっておらず、まるでバラバラの砂のようで、それぞれが自分の考えで行動し、同修の間に長期にわたる隔たりがあるということを、同修の話し合から聞いていました。実際、当時の私もそう考えていました。同修たちは全体として協力し合うことができず、それぞれが自分の小さな打算ばかりしていて、いつも調整役の同修が冷遇されました。地区と地区の間、人々の間には長期的な隔たりが存在していました。なぜそうなのか自分でも分かりませんが、修煉者はこのような状態であってはならないと感じていました。
全ての問題の根源は、法をよく学ばず、法に基づいて問題を認識できず、法に基づいて法を認識できていないことにあると悟りました。そこで、法を暗記し始めることにしました。『轉法輪』を暗記し始めてから、心性が大きく向上し、法に基づいて問題を見て、内に向かって探すこともできるようになり、同修や親族との間の隔たりを積極的に解消できるようになりました。心性が向上すると、法理が見えてきました。
師父が説かれた法は、私にとって目から鱗で、多くのことが理解できるようになりました。師父は次のようにおっしゃいました。「人心や良くない要素がまた現れます。トラブルが現れたら、大法弟子の修煉が良くできていないと言ってはならず、この修煉団体云々や個人が精進していないとも言ってはいけません。彼の修煉してできた部分は、あなたには永遠に見えなくなり、その部分はすでに神になり、できていない部分だけが現れてきます。しかし、これらの人は確かに修煉しています。修煉しているだけではなく、彼らはすでに自分の巨大な果位と身体全体の巨大な変化を成就させました。身体の多くの部分はすでに神まで成就しました」。それで「長く修煉しているのに、なぜトラブルがまだこれほど激しいのか? 長く修煉してきたのに、なぜまだトラブルがあるのか? 修煉に修煉を重ねてきたのに、なぜ以前よりも悪くなったように見えるのか? なぜ向上が見られないのか」と思う人がいて、多くの人はこのような考えを抱いています。実はこれは間違った認識であり、大法弟子の修煉形式について根本から理解できなかったことによるものです」(『各地での説法七』「米国首都法会での説法」)
師父の説法の中で私は悟りました。私たちの修めできた部分はすでに隔離されており、私たちが常に見ているのはまだ修めずうまくいっていない部分だけです。ですから、同修に問題があるのを見ても、同修の表面的な現れに心を動かされて新たな執着を形成してはなりません。 この執着とは、心の中で他人の不足をいつまでも手放せず、法に基づいて理解することができないことです。もし私たちが本当に同修の修煉がうまくいっている部分、つまり非常に荘厳で神聖な神であることを見ることができたら、手放せないものなど何もないでしょう。しかし、実際には私たちには確かに見えません。これは100%師を信じ、法を信じることができるかどうかを示しているのではないでしょうか。
普段、同修と付き合うときは、自分の考えや一念をよく見つめなおすべきです。もし自己の思想が前向きではなく、ネガティブな思考で他人を考えているなら、それは自分の心性に問題があり、自分の不足を探すべきです。もし正念で理解できないなら、同修に直接指摘すべきです。それもできないなら、少なくとも口を修めて、陰で他人に言わないようにすべきです。
実は、私自身もその中の一人であり、陰で他人の至らない点を批評したこともあります。私たちは皆、自分自身を見つめ直し、自分自身を修める必要があります。自分にトラブルが起きていないからといって、安心して今までどおりでいてはいけません。特に、他人の執着に執着してはいけません。できれば自分の心の中で以前の同修に対する不満を積極的に探し、解消し、自我を手放し、我々の全体が真に漏れのない一体となるようにします。師父が望むことを圓容し、師父が行わせることを行い、合格した大法弟子となります。
以上は個人の限られた次元での認識に過ぎません。法に基づいていない部分があれば、同修の指摘をお願いします。
(編集者:李明)