文/黒竜江省の大法弟子
【明慧日本2025年2月27日】私がとても小さいころ警察官が制服を着ているのを見るたびに、彼らに羨ましい眼差しを向けていました。警察が人々のために正義を貫く存在だと知っており、この職業は私の心の中で非常に神聖で、「もし将来自分が警察官になれたらどんなに良いだろうか」とも想像しました。
流れに身を任せ、初心を失う
中学校卒業後、警察官の採用募集で私は幸運にも司法警察官になることができました。私の夢が叶ったのです! 制服を着た時、鏡に映る自分の均整の取れた体格を見て、活き活きとして輝いている姿に心は喜びに満ち溢れ、内面は誇りと自尊心で満たされました。同時に、神聖で荘厳な気持ちでいっぱいになりました。
1980年代末、私はある市の労働教養所で働いていました。この労働教養所では職員が100人以上おり、男性チームと女性チームに分かれていました。収容者の多くは管轄下の各県レベルの市または県の出身者でしたが、一部は他の都市からの収容者もいました。収容者が多い時には300人以上いました。私は女性チームで刑務官を務めていました。
労働教養所が公表している業務内容によると、労働教養所は受刑者を更生させ、新たな人間を育成するための特殊な学校であり、教育を基本とし、救済に重点を置いているということでした。労働教養所と労働教養所の警察は、受刑者の法的権利、信教の自由、人格的尊厳を侮辱しないこと、身体の体罰や虐待をしないこと、個人の財産を侵害しないこと、受刑者の通信の自由や家族が頻繁に面会できることなどを法に基づいて保障する。受刑者に対する6文字方針は「教育・感化・救済」であり、受刑者への接し方は「医者のように、教師のように、親のように」と求められていました。
しかし実際には、同僚が収容者に対して眉をひそめ、大声で怒鳴り散らす姿を目にしました。一部のベテラン警察官は、収容者から金品をゆすり取ったり、家族が預けたお金を収容者に渡さず、自分の懐に入れたりしていました。収容者は泣き寝入りするしかありませんでした。ある一般の収容者が満期で釈放される際、家族が迎えに来ましたが、会計をしてみると千数元のお金が足りないことがわかりました。家族が道理を説いて抗議したところ、警察官に殴られそうになり、最終的には泣く泣く帰りました。
それだけでなく、刑務官は収容者の腕時計や貴重品を自分のものにしていました。ある時、収容者の家族が食べ物や品物を刑務官に託して収容者に届けようとしましたが、その中に非常に高価な革ベルトがありました。この刑務官は収容者に対し、「ベルト類は労働教養所では監房内に置くことが許可されていないので、私が預かっておき、あなたが家に帰る時に渡します」と言いました。こうして、この革ベルトを自分のものにしてしまいました。
ある女性中隊長は、知り合いが収容されている親族から食べ物を届けてほしいと頼まれました。中隊長は腐乳の缶詰だけを収容者に渡し、他の物はすべて自分のものにしました。しかも、中隊長は「この腐乳はあなたの親戚が送ってきたものですが、昼に私が開けて少し食べました」と言いました。その後、この収容者が家に帰る時、別の隊長が彼女の衣類をすべて自分のものにし、一枚も持ち帰らせませんでした。このような金品を勝手に差し引く行為は労働教養所では珍しいことではなく、上級機関に報告しても見て見ぬふりをされます。
ある時、収容者の体調が悪くなり、家族が頼んで市の病院で検査を受けさせようとしましたが、大隊長は賄賂を差し出さなかったので、それを拒否しました。このような露骨な情けはなく利益を求める行為は、ごく当たり前のことでした。
ゆすり取る条件がない場合は、条件を作り出すのです! 売店を担当する刑務官がいました。春になると、広い庭の空き地に野草が生えてきました。彼女はよく、口座にお金のある収容者を連れて野草を摘みに行きました。収容者の自由な時間になっても、刑務官は収容者を外に出しません。この時、売店の味噌やその他の商品を売るためにこのような方法を思いついたのです。しかも彼女は、収容者の口座にあるお金を勝手に差し引いていました。収容者の食事は、鶏の餌にするトウモロコシ粉で、白菜は洗わずに細かく刻んでスープにします。ある時、収容者がスープの中に小さなネズミの赤ちゃんがいるのを見つけました。
ここに監禁されている労働教養者は、人権、人格、尊厳などを全く持っていません。収容者と警察官は同じ庭にいますが、待遇は全く異なります。昼休憩時、所長は男女の部下を連れて踊り出します。これは、実際には自分に不貞行為をする環境を提供していて、これらの男女警察官の間では公然と乱れた行為が行われています。
時間の経過と環境の悪化に伴い、私はこれらの現象に対し、最初は適応できなかったのが徐々に適応し、受け入れるようになりました。その過程で、私は飲酒、ダンス、麻雀、人を殴ること、人を罵ることを覚えました。そして、自分が経験豊富で円滑になり、傷つかないように立ち回るようになりました。私が当直の時は、美味しいものを少し取り置き、好きな信頼できる収容者に渡して一緒に食べました。
労働教養所という環境は、善良な人を徐々に良心を失わせ、悪い人をさらに悪くします。私は徐々に初心を捨て、流れに身を任せるようになりました。労働教養所の現実は、社会で流行している「昔の盗賊は深山にいたが、今の盗賊は公安にいる」という言葉を裏付けています。
嘘を信じて迫害に加担する
1999年末、労働教養所は強制的に法輪功学習者を次々と受け入れました。全国の労働教養所は上級機関の命令を実行し、法輪功学習者の「転向」を要求し、法輪功の学習と修煉を禁じました。もし転向せず、修煉を続ければ、殴ったり罵ったり、脅したり、利益で誘惑するなどの手段を用いて「転向」させ、転向書などの四書、五書を書くように求めました。しかし、ありとあらゆる嘘と暴力を振るっても、完全に「転向」させることはできません。たとえ「転向」したとしても、それは心の底からの修煉の放棄ではありませんでした。
迫害情勢が厳しくなるにつれて、大量の法輪功学習者が強制的に労働教養され、迫害されました。そのため、周辺都市で強制的に労働教養させられた法輪功学習者も、私がいる労働教養所に送られてきました。これらの修煉者は社会の各階層出身で、社会の中高層の指導者や技術者、警察官、軍人、教師もいれば、文字の読めない農民や主婦もいました。年齢の高い人は70歳以上で、若い人は15、16歳でした。
労働教養所は、上からの「転向」率に達成するため、所長や隊長などを、法輪功迫害で有名な他の地域の労働教養所に派遣し、「転向」手段を学ばせました。そして、帰所後、暴力的な「転向」を開始し、思想と人心を強制的に変えさせようとしました。「転向率」の要求は90%以上でした。法輪功学習者の置かれた環境もますます悪化し、信念を曲げない者には、束縛椅子、別名「虎の腰掛け」(受刑者を鉄の椅子に座らせ、身体、手足を一定の角度に固定する)や、「大背铐」(両腕を上下にねじって背中に回し、手首を手錠で縛る)などの拷問が用いられました。地面に倒されたり、冷たい暖房器具に手錠をかけられたりするなどの様々な拷問も行われました。最も一般的な拷問は、法輪功学習者に小さな椅子に座らせ、両手を膝の上に置き、腰をまっすぐに伸ばさせ、前を見させ、「天安門焼身自殺」偽装事件など、法輪功を中傷する捏造された映像をテレビで見させることでした。食事などの決められた時間以外は、すべて夜の9時、10時まで座らせました。刑務官と受刑者の監視役がその場にいて、向かい合って監視し、体が揺れたり目を閉じたりする者を見つけると、時間を延長しました。
労働教養所はすべての刑務官と監視員に対し、法輪功学習者に対しては必ず厳しく接するように要求しました。どの刑務官や監視員が法輪功学習者を殴ったり罵ったりする時、他の刑務官や監視員も大声で応援しなければならず、そうでなければ立場が動揺しており、思想に問題があると見なされました。刑務官には「転向」のノルマが定められており、高額のボーナスと直接結び付けられていました。監視員としての受刑者に対しては、刑期短縮が誘惑餌として使われました。
刑務官と監視員は、狂ったように法輪功学習者を迫害しました。迫害に抗議するためにハンガーストライキを行った者に対しては、強制的に野蛮な灌食が行われ、注入管を口から引き出す時にはいつも血が付いていました。「転向」を拒否する法輪功学習者に対して、刑務官たちは電気警棒やゴム棒などを一緒に振り上げ、殴る声や叫び声が絶えず、労働教養所全体に響き渡り、陰惨で恐ろしい人間地獄のようでした。拷問による迫害に耐えられず、自殺で抗議することを選んだ人もたまにいました(注:法輪大法は殺生と自殺はどちらも罪深いと指摘しています)。一部の法輪功学習者は迫害により生命が危険な状態になり釈放され、家に帰ってから間もなく無念の死を遂げました。
初めてこれらの法輪功学習者と接触した時、私は中国共産党の嘘を信じていたため、「私があなたたちを懲らしめられないはずがない!」と心の中で激昂しました。当直中、管理に従わず法を暗唱したり、「転向」しない法輪功学習者の権利をすべて剥奪しました。勝手にトイレに行くことも、時間になったら寝ることも、面会することも、家族が食べ物を差し入れることもすべて許さず、所内の個人請負の売店で売っているものを強制購入するように強要しました。新しく送られてきた法輪功学習者に対しては、前に言及した高価なベルトや、腕時計、衣類、食べ物、そして貴重品も勝手に没収しました。警察官が自分のものにするのは、ほとんどが法輪功学習者の所有物でした。
恐ろしく震えるような暴力的な「転向」が続き、私は心身ともに疲弊し、明らかにストレスが大きくなっているのを感じ、深刻な不眠などの症状が現れました。私は考え始めました。長い期間にわたる様々な拷問の下で、法輪功学習者たちは過激な言動を取らず、逆に平和的かつ善意的に真相を語り、警察官たちに善悪には報いがあるという道理を、恨みも怨みもなく伝えていました。
(続く)