文/海外の大法弟子
【明慧日本2025年2月27日】大法が広まって33年経ち、法が人間を正す時期が目前に迫っています。しかし、学習者の中には依然として非常に楽観できない現象があります。多くの学習者は自分と意見が合わない人や出来ごとに遭遇した時、最初に抱く念は強烈に外に向けて非難し、自分の認識や観念を基準にして相手を決めつけるのです。相手が受け入れなかったり無視したりすると、口論になったり、へ理屈をこねたり、物事に付きまとってしまいます。
言い換えれば心性の試練が訪れた時、第一念は他人が間違っていると決めつけ、「自分が上で他人が下だ」と競い合うのです。これはまさに自分を実証し、外に求め、外へ押しつける心ではないでしょうか。修煉を向上する機会を世俗的な争いにしてしまっており、これは修めておらず、あるいは偽りの修煉ではないでしょうか。
物事に直面した時の第一念がこのようなもので、しかもそれが当たり前のようになっているとしたら、修煉の環境や当事者の修煉状態がどうなるかは想像に難くないのです。ある困難がいつまでも解決できず、あるプロジェクトが法の要求に達せず突破できないままであり、ある環境では人心や人情が溢れており、これらはまさに皆の修煉状態が法に沿っていないことを写す鏡ではないでしょうか。
訓練を受けた修煉者であればどんな問題に直面しても、まず法がどのように求めているのかを思い出し、自分がどうすれば法の要求に達することができるか、なぜ自分がこの出来事に遭遇したのか、このことを通じて何を修めるべきなのか、何か良くない観念を取り除くべきかを内に向けて探します。そのために、決して、時間を人と争うことや外に求めることに使わないのです。しかし、自分は「とても理屈が通っている」と思っている人もいますが、実際は外部に助けを求め、見せかけの議論をしているだけです。彼らが望んでいるのは他人が自分を認めてくれることだけです。なぜ悪人がグループチャットやプロジェクトを標的にして煽動し、対立を引き起こすことが出来るのでしょうか。それは一部の人は自分を修煉者として見ていないからで、修めておらず、偽りの修煉をし、心を込めて修煉してないものは簡単にその罠にはまってしまうのです。
これを言うのは、正法修煉が既に25年に及んでいるからです。大陸の人、大陸から海外に出た人、もともと海外にいる人も物事を常人の基準で測ることが今なお非常に普遍的に見られます。1999年の迫害が始まった時から、立ち上がって法を実証し真相伝えをすべきかどうか、何を話すべきか、悪人が現世で報いを受けることは善ではないのか。誰かの言葉に刺激を受け、自分はこうあるべきだと思い、誰かの言葉を聞いて自分のことを言われたと感じ、すぐに弁解し、自分を証明しようとする心が湧きあがってしまい、ある文章を読んで自分の認識と違えば、すぐに反論し相手を正そうとする心が起こり、発正念の要領は、集団発正念の時間をどう決めるべきか等々、如何なることも論争の種になっているかのようです。それで満足ですか。同修の皆さん、修煉とは「あなたが間違っている、私が正しい」というものではないのです。
師父は『轉法輪』で「新しい学習者も古い学習者も、大法の中で修煉し、みんな功成って圓満成就できるように希望します! 皆さんは帰ってからも時間を無駄にせず、着実に修煉するよう切に希望します」と説かれました。この法を読み「特に難しいことは言ってないし、一目瞭然だ」と思う人もいるかもしれません。でも実際に行動に移すとどうでしょうか。どうすれば本当に自分を煉功者、修煉者として見なすことが出来るのか。どうすれば大法の中で修煉していると言えるのか。どうすれば時間を惜しんで実修していることになるのか。これは本当に修煉しようと思う人ならば毎日、あらゆる時、あらゆる出来ごとの中で、自分自身に問いかけるべきことではないでしょうか。もちろん毎回すぐに悟れるとは限らないし、すぐに実行できるとも限りません。しかし、実際に行動に移してこそ、それが修煉なのです。
反対に、本来は修煉者の環境であるはずのところで、第一念が常人の心であり、第二念、第三念そして最後の念にも常人の考えしかなかったとしたらどれほど口先が立派であろうと、自分を高く評価しようと、大法の中の用語をどれほど自由自在に使いこなそうと、それは修煉者の姿ではありませ。法に則っていないのです。ある同修は争い慣れてしまい、思い通りにならないと派閥を作り、「裁判官」を探して判断してもらうことさえあります。それでは俗世に自らを縛り付ける「慣性の列車」に乗り込んで、降りようとしないのと同じではありませんか。しかもその列車が向かう先は、修煉の圓満ではなく、大法弟子が史前の誓約を果たす場所でもないのです。
数日前、ある同修の交流文を読みました。その中で『道法』という経文が彼女に大きな助けを与えたと書かれていました。もし私たちが『道法』と『佛性』の二つの経文、更に『精進要旨』を全部暗記し、常に自分を照らし合わせて、特に心が動じそうな時に思い出して実践できたならば、私たちの心性の状態は、間違いなく質的な飛躍を遂げることになります。