文/中国の大法弟子
【明慧日本2025年2月27日】旧正月前に故郷へ帰省した際、高速道路を降りた直後に、通り過ぎる貨物トラックのスピーカーから何かを売り込む声が聞こえてきました。ところが、私の耳には「急げ、救え!」と聞こえたのです。トラックは一瞬で走り去りましたが、隣に座っていた妻(同修)に確認すると、何か声が聞こえたと言いましたが、はっきりとは聞き取れなかったとのことでした。その瞬間、私たちはこれは師父が「帰省中の時間を無駄にせず、より多くの人を救いなさい」と私たちに示してくださったのだと悟りました。
年越しの食事を終えた後、私は真相資料を手に村の中を歩きました。村の人々とは普段なかなか会う機会がなく、旧正月の時期だけが短い再会のチャンスだからです。久しぶりに、何年も顔を合わせていなかった隣人に出会いました。彼はすでに以前、三退を済ませていました。私は彼に真相冊子を一冊手渡しました。すると、彼は興味深そうに熱心にページをめくり始めました。彼の父親も数年前に三退をしており、「こういう真相資料が好きなんだ。何冊かもらえないか?」と言われました。私はすぐに家に戻り、追加で数冊持ってきて渡すと、彼はとても喜び、大切そうに受け取ってくれました。
村の中には、かつて一年以上も刑務所に拘禁され、最近釈放されたばかりの人がいました。彼に小冊子を渡すと、ページをめくりながら何度も頷き、「当時の抗日戦争は、主に国民党が戦っていたんだな。この資料は本当のことを伝えている。中国共産党は歴史を捏造して、嘘をばらまいているんだ……」とつぶやき、私に「今でも、まだこれ(煉功や真相資料の配布)を続けているのか?」と尋ねました。私は落ち着いて、大法の基本的な真相を伝えました。「君は中国共産党が悪いと知っている。でも、どこが悪いのか、具体的に考えたことはありますか? 私たちが資料を配るのは、中国共産党のどこが悪いのか、なぜ天がそれを滅ぼそうとしているのかを知ってもらうためなんだ。私たちが三退を勧めるのは、君に邪悪と縁を切ってほしいからで、将来、中国共産党が清算されるときに、君が巻き込まれないように……」というと、彼はすぐに理解し、「ああ、そういうことだったのか!」と納得した様子でした。そして、三退を勧めると、彼はためらうことなく快く応じてくれました。
私たちの家は大家族ですが、一族の中でまだ三退していないのは、甥の妻と姪の夫で、結婚したばかりの2人の「新人」だけでした。妻である同修から、「必ず彼らに真相を理解させ、三退させて」と前もって念を押されていました。旧正月の2日目、彼らが家に来ました。しかし、その日は来客の対応でとても忙しく、なかなか話す時間が取れませんでした。そんな中でも、妻は機会を見つけて何度も「真相を伝えるように」と私に促してくれました。そこで私は時間を作り、まず甥の妻と話をすることにしました。彼らは昨年結婚したばかりで、甥の妻とはあまり親しくなかったため、最初は話しづらいのではないかと少し不安を感じていました。しかし、話をする前にそうした常人の考えを振り払い、勇気を持って切り出しました。そして、自分自身が受けた迫害の経験、中国共産党がなぜ私たちを迫害するのか、六四天安門事件や数々の運動、さらには大法に対する残酷な弾圧や生体臓器摘出の実態について話しました。甥の妻は大学を卒業しており、中国共産党の表面的な悪事についてはある程度知っていました。そのため、基本的な真相を伝え終える頃には、すぐに理解し、三退を決意してくれました。
次に、姪の夫に真相を伝える番になりました。今回は別のアプローチを取ることにしました。というのも、彼らが子どもを授かったとき、姪は難産で、8時間経っても出産できない状況にあったのです。しかも、その時はちょうどパンデミックの真っ最中でした。
当時、姉は泣きながら私に助けを求め、「あなただけが助けられる」と言いました。彼らはすでに大法の真相を理解していたため、つまり「師父だけが赤ちゃんを救える」という意味でした。私はすぐに姪の夫に電話をかけ、「姪と一緒に『法輪大法は素晴らしい、真善忍は素晴らしい』と繰り返し唱えるように」と伝えました。そして、病院の外で待っていた姉と義兄たちにも同じように唱えるように頼みました。妻と私はその場で発正念し、師父に助けを求めました。すると、わずか30分も経たないうちに、赤ちゃんは無事に生まれました。家族全員が、大法の奇跡と偉大さを目の当たりにしたのです。そこで、今回はこの出来事をきっかけに姪の夫に真相を伝えることにしました。彼はすぐに理解し、三退を決意しました。
正月三日の夜、私はとても鮮明な夢を見ました。夢の中で、叔父の家のいとこたちに真相を伝え、三退を勧めていました。そして、夢の中で彼らの三退の名前を考え、記録していました。目覚めたとき、「これは師父が私に啓示を与えてくださったのだ」と確信し、彼らに真相を伝えなければならないと思いました。しかし、翌日、家族全員で姉の家に行く予定があり、それと時間が重なってしまいました。その日は一日中雨が降り続き、いとこの家までは遠い道のりでした。そのとき、私は「今日はやめておこう」と思ってしまいました。結局、いとこの家には行かず、何人ものいとこに真相を伝える機会を逃してしまいました。後になって、とても後悔しました。楽をしたいという気持ちや、姉や甥たちとの時間を優先したいという思い、さらには「面倒だな」と感じる心が入り混じり、貴重な機会を逃してしまったのです。
旧正月6日目、同修と交流を行い、最近の自分の状態について振り返りました。
私たちは、大法の修煉を始めて以来、それぞれの状態がどのように変化してきたかを思い返しました。修煉を始めたばかりの頃は、迫害が非常に厳しい時期でした。しかし、そのような状況でも、誰か同修が迫害を受けたと聞けば、すぐに集まり、それぞれの特技や能力を活かして積極的に救援活動を行いました。家族に真相を伝え、一緒に公安局や国保大隊、洗脳班へ行って釈放を求める人もいれば、正義感のある弁護士を探して無罪弁護を依頼する人もいました。また、迫害の実態を手紙にまとめ、各地から関係者へ送る人、迫害を受けた同修の自宅や職場周辺で資料を配布したり横断幕を掲げたりする人、迫害の証拠を集め、記事を書く人もいました。さらに、近距離で24時間絶え間なく発正念を行う人もいました。こうして、私たちは10年以上にわたり、お互いに協力しながら活動を続けてきました。その当時、私たちはまさに一つのチームのように結束し、力を合わせて行動していました。誰もが主体的に動き、同修の問題を自分の問題として受け止め、分け隔てなく助け合っていたのです。
しかし、時が経つにつれて状況は変わっていきました。近年、多くの同修が迫害により命を落とし、あるいは生活のために他の地域へ移住し、さらには病業や家族の問題に巻き込まれて世俗に埋もれてしまう人も増えてきました。その結果、地元で積極的に活動できる同修の数は次第に減少していきました。そして、誰かが迫害を受けたと聞いても、以前のように全体で連携し、積極的に救援活動を行うことが少なくなってしまいました。こうして年月が過ぎるうちに、私たちはただ決められたことを淡々とこなすだけになり、多くのことに対して無関心になり、正念を失ってしまったのです。
師父は新経文の『肝心な時に人の心を見極めている』で、「ですから、どんな状況においても修煉者の要求を基準にし、法をもってすべてを量るべきです。末後、法を正し人を救うというこの重要な歴史の時期において、現れたすべての問題に対していっそう、修煉者の自覚をもって対処すべきです。法を最優先にし、大法のプロジェクトをしっかり守ることによって、大法のプロジェクトが人を救うことの役割をしっかり果たすことを唯一の考えるべきこと、取り組むべきことにしなければなりません。肝心な時においてどんな私心と私念でも持ち込んでしまえば、邪悪が望む作用を働くことになります」と説かれました。
私たちは自分自身を振り返りました。この過程の中で、私たちは少しずつ感覚が麻痺し、冷淡になっていったのです。つまり、大法を最優先にせず、修煉や衆生を救うことを軽視していたことに他なりません。根本的には、私たちの空間場に「私」の心が入り込み、大法の修煉者としての神聖な使命と責任を忘れてしまったのです。師父の法を正す最終段階にあるこの極めて重要な時期に、私たちの中に表れている麻痺や冷淡さこそ、取り除くべき「私」の心です。それは、年月が経つにつれて怠惰になり、形だけの修煉になってしまっているのです。これは旧勢力が大法弟子を破滅させるために仕掛けた、最も陰険な策略に他なりません。
師父は、「特にこの状況下で皆心を同じ方向に向かわせ、法を最優先にし、修煉者の基準で自らを律し、人を救うためのプロジェクトが損害を受けず難関を乗り越えるようにすることこそ修煉者としてのあるべき姿です。これは威徳なのです。なぜならば、これは皆さんが必ず乗り越えなければならない関だからです」(『肝心な時に人の心を見極めている』)と説かれました。
このことに気づいたとき、私は師父の教えを思い出しました。そして、自分たちの修煉がいかに至らなかったかを痛感しました。私たちは、修煉者としての基準を厳しく守れていなかったのです。
中国と海外では、表面的には異なる試練があるように見えますが、それらはすべて、邪悪が大法弟子の「私」の心を狙って仕掛けたものです。修煉者が乗り越えなければならない難関に、国内と国外の違いはなく、大切なのは「どのようにして全体として団結するか」、「どのように人心を取り除くか」、「どのようにそれぞれの役割を果たし、大法修煉者として進むべき道を歩むか」ということだけです。私は、師父の経文『肝心な時に人の心を見極めている』を読み、そのお言葉がこれまでになく厳粛で重みのあるものであることを感じました。そして、師父が私たちの修煉の不足を鋭く指摘し、強い警鐘を鳴らしていると悟りました。もしこのまま目覚めず、大法の修煉に真剣に向き合わず、真に実修しなければ、私たちはこの貴重な機縁を失ってしまうのです。