【明慧日本2025年2月27日】東晋の官僚で政治家の王述(303~368年)は、太原郡晋陽県、魏晋南北朝時代の名門貴族の一つ太原王氏の出身です。若くして父を失い、蘭田侯の爵位を受け継ぎました。母に孝養を尽くし、清貧に安んじ倹約生活を送っていました。その後、尚書令、散騎常侍などを歴任し、太和3年(368年)に死去しました。
王氏は普段からせっかちで、いらいらしがちでした。ある日、卵を食べようとした時、箸で刺して失敗したので、怒って卵を地面に投げつけました。卵が転がるのを見ていっそう怒りがこみ上げて、席から降りて下駄の歯で卵を踏もうとして、また失敗しました。怒った彼はとうとう手で卵をつかんで口に詰め込み、噛んでから吐き出しました。
この話が広まると、みんなは彼を笑いました。彼は自己反省し、それから常に自制することを心がけていました。特に高い官職に就いてからは、柔軟に政務を処理するようになりました。
謝毅は気性が荒く、意見の相違から王氏を恨み、非常に悪辣な言葉で王氏を罵りました。王氏は一言も言わず、ただ壁に向かって立っていました。謝毅が十分にうっ憤を晴らして帰ったあと、王氏は黙々と自分の席に戻りました。この事で同僚は彼を高く評価し、「清貞簡貴」と称賛しました。
かつては怒りっぽくて卵にも八つ当たりする人が、自己を修養してから「壁に顔を向けて屈辱に耐える」までできるようになった王氏は本当に立派です。王氏が育てた子供たちも優秀で、息子の王坦之は立派な大臣になりました。元(げん)の時代の学者・呉亮と徐名奎が著した『忍経・勧忍百箴』に、「百のことを忍べる者は、百の福を得る」とあります。これは言い得て妙です。「勧忍百箴」とは、忍と寛容を勧める百の箴言の意味です。
王述の生涯は『晋書』、『世説新語』に記載されています。