文/中国河北省の大法弟子
【明慧日本2025年4月5日】最近、病業の魔難に遭っている同修を助ける過程で、私は同修に対して良くない観念を持っていたことを体験しました。私たちがより良い一体を形成するために、それが深刻な障害となるのです。このことについて、皆さんと交流したいと思います。
現在、多くの同修が、かつての同修を見つけ出し、より良い一体を形成するべきだと認識しています。そこで私は、もう一人の同修と一緒に、10年以上会っていなかった古い同修のAさんの家を訪ねることにしました。
10年以上前、私たちは同じ学法グループにいました。しかし、私は職場が変わり、遠くなったため、一緒に学法することができなくなりました。その後、Aさんが深刻な病業に陥り、脳と心臓の大手術を受けたと聞きました。
私たちがAさんの家に着くと、Aさんは私たちの姿を見て感激の涙を流しました。それは、彼女がどれほど助けを必要としていたかを物語っていました。現在のAさんは、歩くのも不安定で、話すのも遅く、本を読もうとしても目がかすんでしまう状態でした。私は大変申し訳なく思い、「こんなに長い間、あなたを訪ねて来なかったのは、私の至らなさでした」と伝えました。
それから、私たちはAさんの思いをじっくりと聞き、法理の面で切磋琢磨して交流し、彼女の正念を強める手助けをしました。すると、Aさんはすぐに足取りがしっかりし、話し方も滑らかになり、本を読んでも目がかすまなくなりました。
それから、私たちはAさんに、グループ学法に参加するよう励まし、全体の環境から離れないように伝えました。Aさんはついに多くの困難を乗り越え、ご主人の車で送迎してもらいながら、グループ学法に参加するようになりました。その間、私は何度かAさんの家を訪ねましたが、彼女の状態はどんどん良くなり、以前のように同修に依頼することもなくなりました。私たちは皆、Aさんの変化を心から嬉しく思いました。
ある時、偶然にも別の同修と出会いました。この同修は以前、Aさんの家によく行って助けていたのですが、Aさんの強い依頼心に疲れてしまい、さらに自分自身も忙しくなったため、通うのをやめてしまったとのことでした。
彼女はこう話しました。「Aさんは、過去に自分がうまくできなかったことを思い出すたびに、「厳正声明」を発表してほしいと言ってきました。何度も何度も言いました。ほかに、何か決めなければならないことがあると、どうすればいいかわからなくなって、何度も何度も同じことを聞いてくるのです」(実は、これは主意識が弱く、さらに思想業の妨害が強いために、同修に依頼するのです)。彼女に言っているのに、彼女はまた聞いてくるのです。同修たちは彼女のしつこさに耐えられなくなり、だんだん行かなくなったのです」
私がその話を聞いた後、Aさんに対して見方が変わりました。なぜなら、Aさんはこれらの問題について私にも質問したことがあり、「厳正声明」も私に頼んで発表したことがあるからです。その時、私は同修に対して純粋な気持ちで、何の観念もなく、法理を理解できるように彼女を忍耐強く助けましたし、「厳正声明」も手伝って発表しました。
その後、グループで学法をしていたとき、Aさんは何年か前の小さな出来事を思い出し、その時の行動が間違っていたと感じて、また一晩中眠れず、「厳正声明」を発表したいと思ったようです。その時、私は少し煩わしくなり、「書く必要はない」と言いました。彼女はその後、別の同修に尋ね、そちらの同修も「書く必要はない」と言ったため、ようやく諦めたということでした。
私は突然、自分が同修を助ける心がもう純粋ではないことに気づきました。すでに人間の観念や考えが混じっていて、人間の観念や考えが混じると、真の善と慈悲を実践することができません。そうなると、どうやって同修を助けることができるのでしょうか? 実際、同修を助ける過程も自分を修める過程であり、師父はこのようにおっしゃいました。「これは末後のとき衆生が救い合っているのです」(『険悪を遠ざけよう』)
このことに気づいた後、私は同修に対する自分の観念を取り除き、再び忍耐と善念を持って彼女に接することにしました。彼女がどんな態度を示しても、私は笑顔で彼女と切磋琢磨に交流し、彼女にもっと法を学ぶように導き、主意識を強化し、正念を発することを勧めました。Aさんの顔にも再び笑顔が戻りました。
この出来事から、私は同修に対していかなる先入観も持つべきではないと悟りました。以前、知らず知らずのうちに、同修に対する多くの良くない見方を形成していました。例えば、「この人は物事だけ行い心を修めていない」、「あの人はとても自己中心的でケチだ」、「この人は人心がとても複雑だ」「あの人は特に頑固だ」、「この人は口を慎まない」、「あの人は他人の意見を聞き入れない」、「この人は嫉妬心が特に強い」などです。
どんな観念や見方も、私たちがより良い一体を形成することに影響を与えます。私は、これらの観念も一種の物質であることを悟りました。もし同修に対して観念や否定的な評価ばかりを持ち、正法の理で同修を見ないとしたら、同修の間にどれほど大きな隔たりを生んでしまうでしょうか? そして、どうやってより良い一体を形成できるでしょうか? 強大な一体がなければ、迫害されている同修をどうやって救い出せるのでしょうか? さらに、病業に苦しむ同修が速やかに魔難を乗り越えるのを、どうすればより良く助けることができるのでしょうか?
実は、これらの観念だけでなく、大法弟子のあらゆる人心や人間的な考え、執着は、自らの向上を妨げるだけでなく、一体の形成にも影響を及ぼし、さらには衆生の救い済度にも影響を与えてしまいます。
現段階でのわずかな認識であり、不適切なところがあれば、どうか慈悲をもってご指摘ください。