文/韓国の大法弟子
【明慧日本2025年4月8日】私は10代のころから両親と一緒に今日まで法輪大法を修煉してきました。師父の慈悲なるご加護のもとで成長し続けてきました。
師父は、『ヨーロッパ法会での説法』の中でこのようにおっしゃっています。「信じさえすれば、必ず天国に行くことができると思っている人がいます。信じることは一つの基礎であるにすぎません。多くの人の理解は字面だけにとどまっています。あなたに教えましょう。行くことはできません。なぜ行けないのでしょうか? 考えてみてください。本当に信じるとは何でしょうか? あなたは口先だけで信じると言って、実は心の中では信じていません。それはなぜですか? 本当に信じているのなら、あなたの言行は必ず一致していなければなりません」
この説法の一節は今まで何度も学びましたが、ただ読んだだけで通り過ぎてしまい、記憶には留まっていませんでした。最近の学法の中で、この一節が私の目を引き、ふと思ったのは、これまでの自分の考え方がここで言われている宗教を信じる人たちと同じく、大法を修煉するとまるで保険に入ったように思い、法に対する認識も感性から理性的なものに向上したと考えていたのです。
今になってよく考えてみれば、法理を知っていても実行できていない部分は、本当の「信」とは言えません。実行できているのは、自分にとって納得できた部分であり、実行に移っていないのはつまり、「信じていない」ことなのです。まさにこうした「執着」が自分の向上を阻んでいるのです。このような学法と行動の不一致も実は、貴重な修煉の時間を無駄にしているのだと思いました。法をいくら多く学んでいても、外に出ると相変わらず自己流で振る舞っていては、精進しているとは言えません。それ以降、私は常に自分に「言行を一致させなければ」と言い聞かせています。
最近、私は一つの心性の試練に遭遇しました。ある授業の教授は海外の名門大学で博士号を取得した方で、授業中に大半の時間を雑談または彼女自身の外国での学習を話すことに費やしてしまい、肝心の授業内容を掠めるように少しだけ話すか、あるいは乱雑な授業構成のせいで私たちが集中できず、聞いていてもまともに理解できない状況でした。1週目はこうして過ぎていき、2週目も同じで、3週目に何を教わるかと楽しみに待っていたところ、3週目もやはり同じで、結局私は何も学べませんでした。しかも授業後にテスト問題を出され、成績に計算されるので、私は焦り始めました。本来授業中に学ぶべきことが学べず、自分で時間を見つけて学ばなければならなくなり、教材を探し勉強しながら私は怒りを覚え、日頃から夫(同修)に愚痴をこぼし続けました。
ある日、脳の中で「なぜ教授のことを理解してあげられないのか?」という声がしました。私はすぐに、「そうだ。なぜずっと外に向けて原因を求め、なぜずっと教授のせいにするのか? 師父は内に向けて探しなさいとおっしゃっているのではないか」と考えました。今思えば、それはきっと師父からのご啓示だと思います。
私はさらにこう考えました。「教授もきっと混乱を望んでいないだろう。彼女は経験が浅いかもしれないし、そういう性格の人なのかもしれない」。徐々に、私の怒りは八割方おさまり、こう考え続けました。「これほど怒った原因は何だろうか? 自分の時間が無駄にされたと感じたからなのか? 彼女が自分の思うように最初から体系的に授業を進めてくれなかったせいで、何も学べなかったからなのか? これらの考えのすべては『私』を出発点にしている。しかし、どんな状況でも『他人を先に、自分を後にする』べきではないか! これは利己心の現れで、まさに旧宇宙の理なのだ」
この点に気づいた途端、私の怒りは完全になくなりました。そうです! もし1回目の授業から善と忍の心をもってこの事に対処し、外に向けて原因を求めず、感情を怒りに任せていなければ、最初の授業が終わった時点から教材を探し、独学し始めていたかもしれません。
ここまで探し、自分が外に向けて原因を求めていたこと、そして自分に利己心があることは分かりましたが、起因が他にあるようにも思えて、さらに掘り下げていくと「嫉妬心」を見つけました。
実は、この教授は私がとても行きたかった学校で博士課程を修了しており、最初の授業で彼女はその学校がいかに素晴らしく、資金力があるなどと話していて、それに対して私は反感を覚え、彼女の問題点を探し始めたのです。この反感は私の嫉妬心によるもので、一連の問題の根源だと分かりました。師父のご啓示のおかげで、私はこれらの人心を見つけ出すことができ、この一つの出来事を通して多くの執着がさらけ出されました。
嫉妬心を見つけ、さらに師父の説法を思い出した後、これらのよくない考えは二度と私の頭に現れなくなりました。私は時間を割いて教材に従って学習し、分からないところがあれば助教授に聞き、課題も時間通りに提出しました。今週、その教授は授業中にまた小さな問題を起こしましたが、私はネガティブな考えを持たず、彼女が問題を解決するのを静かに待ち、しかも積極的に発言しました。
内に向けて探し心性を高めたことによって、再試験のような今回の授業で、私はついにスムーズに合格することができました。
修煉者もさまざまなトラブルに遭遇しますが、真に師と大法を信じ、師父の要求に従って行えば、どんな問題もきちんと解決することができ、悪いこともやがて良いことに変わります。修煉者として大法に出会えたことは、本当にとても幸運で幸福なことです。
修煉を始めた当初、心性を修めることの重要性が分かっていなかったため、家族関係がぎくしゃくしていました。その後、徐々に師父が説かれた「内に向けて探す」という法理を理解し、しっかり行なうように自分を律し、何事もまず他人を優先的に考えるようにすると、家庭が和やかになり、衝突も起きなくなりました。これらはすべて、ただ法を学ぶだけでは不十分で、着実に行動に移して初めて「信じている」、「修めている」と言えるのだと思います。
まだまだ至らない点が多々ありますが、これからは師父が説かれた法に従って心性の向上を重視し、自分をよく修め、自身の変化をもって大法を実証し、より多くの人に大法の素晴らしさを伝えていきたいと思います。
(編集責任者:李明)