文/中国の大法弟子
【明慧日本2025年4月14日】同修Aさんが私に一つの出来事を話してくれました。ある日、彼女は歩道橋の近くで通行人に真相を伝えていました。すると、一人の通行人がとても重い荷物を持って歩道橋を渡ろうとしているのを見かけ、同修Aさんは親切にその荷物を持って一緒に橋を渡ってあげました。その途中で大法の真相を伝えると、その通行人はとても喜んで真相を受け入れてくれました。同修Aさんはまた橋の反対側でもほかの通行人と縁を結び、橋を渡ろうとしている通行人に真相を伝えました。行ったり来たりしながら人々に真相を伝えたところ、人々はすんなりと真相を受け入れてくれました。最後に彼女が歩道橋を離れようとしたとき、橋の下で屋台を開いている男性を見かけました。これまで真相をうまく伝えられていたことで、自分の歓喜心に気づかずにいた同修Aさんは、その男性にも真相を伝えようとしました。しかし、思いがけずその屋台の店主は顔色を変え、よくない言葉を発して彼女を追い払いました。同修Aさんは落ち込んで自転車に乗ってその場を離れましたが、走っているうちに涙がこぼれてきました。彼女は自分の使命を思い出し、もう一度引き返してその屋台の男性のところに向かいました。彼女が涙を流しながら戻ってきたのを見たその男性は、すぐに「どうしたの? なぜ泣いてるの?」と聞きました。同修Aさんはゆっくりと理由を話し、男性に謝りました。最終的にその屋台の店主は真相を受け入れてくれました。
私は、この同修の体験を聞いて、内に向かって探しました。私も真相を伝えていた時に、ある家具店の女店主に追い払われたことがあります。私はとても心が乱れました。彼女は非常に怒っていたので、私は道路の向かい側で行ったり来たりして、もう一度彼女の店に入りたいと思いました。彼女が少しでも落ち着いて話を聞いてくれればと願っていました。その女店主は店から出てきて、店の入り口に立ち、まだ怒りがおさまらない様子で、私をじっと睨みつけていました。私は何も言えず、心の中で「今度また機会があったら来よう」と思うしかありませんでした。それから間もなく、ある同修が真相を伝えているときに、相手に「出て行け」と言われたという話を聞きました。それを聞いたとたん、私はあの家具店の女店主のことを思い出し、すぐに多くのよくない念が湧き上がってきました。「誰だってそんな経験あるよ」と顕示心が顕れ、「そういう人もいるよね」と恨みの心が顕れ、さらに悪い言葉まで口にしてしまい、あたかも自分はたくさんのことをやってきたかのように振る舞いました。同修Aさんと比べてみると私の状態は修煉者としてふさわしくなく、基準にも達しておらず、むしろ下へと滑り落ちていると気づかされました。
ある時、同修Bさんがこう話してくれました。彼女が同修Cさんの家を訪ねたとき、ちょうどある場面を目にしたといいます。同修Cさんが家で床を拭いていて、彼女の夫が「ここも、あそこもまだだ」と指をさしながら文句を言い、あら捜しをしていました。しかし、同修Cさんは黙って床を拭き続け、一言も不満を言いませんでした。それを見た同修Bさんは、内に向かって探しました。自分は洗濯物の干し方でも夫と口論してしていたことに気付いたそうです。
同修Fさんが交流の中でこう話してくれました。彼女は同修Jさんの家でパートとして家事の手伝いをしていた時、掃除をしている際に同修Jさんに指図されるのが嫌で、「同じ修煉者なのに、こんな態度はおかしい」と感じ、心の中に恨みの気持ちが湧いてきたと言います。それを聞いて、私は自分のことを思い出しました。私は以前、病院で同修Gさんの看護をしていたとき、同様なことに出会いました。私は同修Gさんを責めていて、相手の受け入れ能力を考えませんでした。自分が彼女を助けにきたと思っていました。彼女が修煉できるから、修煉したいと思っているからこそ、自分は手伝いに来たんだ、と思いました。私は本当にうちに向けて探すことができず、ただただ無力感に包まれていました。
他人の問題ばかりを見つけて、他人を見てばかりで、自分を変えることができなければ、大法を実証することはできません。