文/中国遼寧省の大法弟子 惜縁
【明慧日本2025年4月15日】私たち同修の間には、なぜ隔たりが生まれることがあるのでしょうか? 重要な一因は「包容できないこと」にあります。
心が広く度量の大きい常人は、人と善い態度で接し、円満な人間関係を築くことができ、対立する相手もいなければ、敵もいません。言ってみれば、世界中どこでも友人ができるような人です。
人が他人に対して広い心で接するということは、つまり相手を包容できるということです。相手を包容できるならば、お互いの間に隔たりは生じません。皆が同じ方向を見て、力を合わせれば、乗り越えられない困難などなく、成功しかなく、失敗などあり得ません。今生で私たちが同修となり、同じ師父の弟子となれたのは、大法が私たちを結びつけてくださったからです。私たちが共に法を正す師父に手伝い、ともに衆生を救い済度する師父をお手伝いすることができるのは、万古からの聖なる縁であり、師父の周到な按排なのです。私たちはこの縁を大切にしなければなりません。
私たちは大法を修煉してすでに20年、30年が経ち、あとから修煉を始めた人でも10年、20年と修煉してきました。常人と比べれば、私たちはすでに一定の思想境地に達しており、常人のそれをはるかに超えています。しかし、師父の要求に照らせば、私たちにはまだ多くの足りない点があります。中には強引な人もいれば、打算的な人もおり、傲慢な人、そして同修の欠点ばかりを見る人もいます。
私たちの修めた良い面はすでに師父によって隔離されており、神の一面はこの世では見えなくなっています。したがって、表に現れるのは修めきれていない部分、つまり人心なのです。それを理解するならば、私たちは同修を包容するべきであり、同時に、同修の良くできている一面を見なければなりません。
例えば、ある協調人の同修が少し打算的に見える場合でも、私たちは彼のその欠点だけを見るのではなく、ほかの同修のために風雨の中を駆け回り、東に西に奔走していたその協調人を理解すべきです。それは本当に大変なことなのです。
また、ある技術担当の同修が強引な性格であり、コミュニケーションを取りづらい人だとしても、私たちは謙虚になり、議論を避け、善意をもって接するべきです。
大法の門に入れた人は皆、すぐれた根基を持っているのです。私たちがこの技術担当者に善意で接すれば、彼がそれを受け入れないはずがありません。必ず、100%受け入れてくれるでしょう。
資料拠点の同修たちは、協調人や技術担当者の同修と頻繁に接する機会があります。そのとき協調人や技術担当者たちを困らせてはいけません。もし資料拠点で頼んだことがスムーズに進まなかったとしても協調人を責めたりせず、機械にトラブルが発生したとしても技術担当者の同修を責めたりせず、広い心で寛容に対応するべきです。常人でさえ、少し品格のある人ならば高潔さを重んじています。これらの協調人や技術担当者たちは、大法における主力であり、私たち修煉者が衆生を救う上で欠かせない後ろ盾であることを私たちは知るべきです。
同修の皆さんは、自分が担っている使命をしっかりと認識しなければなりません。師父に按排いただいて私たちが今関わっているプロジェクトは、法を正すため、衆生を救うために必要なことです。そして自分自身の果位を成就するためにも必要です。
同修を包容し、人を思いやることは、慈悲の現れであり、覚者のあるべき姿です。私たちは一体何を修煉しているのでしょうか?
ここ数年、私たちの地域では法を実証するプロジェクトにおいて、同修同士の間の隔たりが大きく、皆で全体をなすことが非常に困難な状態でした。私たちは皆、修煉してこの関を乗り越えなければなりません。
至らない点があれば、同修の皆さんにご指摘をお願いいたします。