【明慧日本2025年4月17日】先日、2人の同修が別々に私を憎んでいると言いました。驚きましたが、弁解したり、反論したりはしませんでした。私はすぐ師父の法を思い出しました。
師父はこう説かれました。
「心在らざれば 世と争うこと無し…」(『洪吟』「道中」)
師父はまたこう説かれました。
「しかし、私のこの言葉をしっかり覚えてください。二人の間にトラブルがあり、第三者がそれを見たら、この第三者まで自分のどこに間違いがあるのか、なぜ私がこれを見たのか考えるべきです。ましてトラブルの当事者はなおさら自分をみるべきです。内に向けて修めなければならないからです」(『米国東部法会での説法』)
私は法に基づいて内に向かって探しました。では、なぜこんなことが起こったのでしょうか? もしかしたら、私は中国共産党などへの憎しみのようなものがあったのかもしれません。私は10代の頃、大飢饉(1959~1961年)の真っ只中にいて、栄養のある食べ物を必要としていました。しかし、私が食べられるのは雑草や木の葉、時には木の皮だけでした。私はひどく衰弱していたので、学校へ行く途中で何度も立ち止まって休まなければなりませんでした。私は体育の授業中に校庭で気を失うこともよくありました。
私は生き残りましたが、何百万人もの人が亡くなりました。本当に辛い経験でした。私は中国共産党を憎まないでいられるでしょうか?
私は法輪大法の修煉を始めてから、この恨みという心をある程度放下しました。しかし、1999年に中国共産党が大法を迫害し始めてから、私は中国共産党の工作員に尾行されるのではないかと不安になり、大きなストレスを感じ、疲れ果てることもよくありました。
私は『中国共産党についての九つ論評』と『共産主義の最終目的』を読んだことで、憎しみはネガティブな物質であることを学びました。実際、共産主義のイデオロギーは、伝統的な価値観や神々への憎しみ、つまり恨みに根ざしています。法輪大法の修煉者として、私は常に自己を磨かなければなりません。どうしてこのようなネガティブな物質が私の心を満たしてしまうのでしょうか。
別の角度から見れば、修煉の道における苦難は、心性を高めたり、業を滅したりする機会となり得ます。私は人々が中国共産党の邪悪な本質に気づき、被害を受けないように助けなければなりません。私の思いは、憎しみではなく、慈悲の心で満たすべきです。
これは私の現在の理解です。法に基づいていないところがあれば、同修の慈悲なる指摘をお願いします。
【修煉者同士の理性的な交流は、一般的に、その修煉者がその時点で修煉を通して得た認識に基づいたものであり、善意を持って交流し、互いに向上することを目指すものです。】