「悪いことも良いこともすべて良いことである」についての理解

文/河北省の大法弟子

 【明慧日本2025年4月26日】今朝、起きて動功を煉功している時、数日前に病業の関を乗り越えた経験が再び私の脳裏に浮かびました。これは師父の啓示だと感じ、病業の関を乗り越えた経験を書き出し、同修のみなさんと分かち合いたいと思います。そして今日、私の経験を分かち合い、同修のみなさんと共に励まし合いたいと思います。

 数日前、私は腰がひどく痛みました。実はしばらく前から痛かったのですが、私は法に則って修めず、ただ我慢して耐えていました。

 そしてある日、私は「私は修煉者だ。魔難が来たのなら、このように常人のやり方で時間を費やしても意味がないし、何の役にも立たない。師父は「修煉の中で、皆さんは良いことに出会っても、良くないことに遭っても、すべて良いことです」(『精進要旨三』「シカゴ法会」)と説かれています。修煉者として、私はこの言葉をどのように理解すべきだろうか?」と思いました。

 常人が言う「良いこと」とは、例えば、お金を拾ったり、給料が上がったり、会社から福利厚生が出たりなど、自分の気分が良くなったり、嬉しくなったり、あるいは利益を得られるようなことすべてが良いことです。一方、常人が理解する悪いこととは、今日他の誰かの態度や言動で怒りの感情を抱いたり、誰かに意地悪をされたり、体のどこかが具合が悪くなったり、あるいは金銭的な利益を何か失ったりなど、自分が苦痛を感じるようなことすべてが悪いことです。それでは、修煉者である私は、どうやって腰痛を良いことと見なせるのでしょうか?

 私はこのように考えました。まず、師父の弟子である私は、師父が説かれたこのお言葉は正しいと無条件に受け入れるべきです。それならば、私は積極的に観念を変え、腰痛は良いことだと考えるべきです。では、どのように考えれば良いのでしょうか? そして、私は「私の腰が痛むのは、師父が私の体を浄化してくださっているからだ、腰という部位で私の人体の細胞を高エネルギー物質に転化させてくださっているのだ、これは師父が私を人体から神体へと転化させる過程の現れであり、ただ腰痛という形で現れているだけなのだ、これは確かに良いことだ、師父に感謝すべきだ」と考えました。

 実はこの問題に関して、私の認識にはずっと誤解がありました。それは、師父が弟子に体を浄化してくださる時は、灌頂のような、温かいエネルギーが全身を巡る心地よい感覚であるはずだ、というものでした。しかし今では、師父が私たちに体を浄化してくださる時、心地よい感覚であることもあれば、様々な苦しい感覚であることもあると認識しています。そして、人によって苦しい感覚の現れ方も様々であるかもしれません。例えば、ある人には痛みが現れ、ある人には体が痒くなる感覚が現れ、またある人には体がむくむ感覚が現れるなど、人それぞれに様々な現れ方があるのです。

 つまり、私たちの体にどのように不快で、辛い感覚が現れたとしても、それを師父が私たちの体を浄化してくださっている、良いことだと私たちは考えるのです。これがまず第一に成すべきことだと私は思います。

 次に、師父が弟子に体を浄化してくださる時、なぜある弟子は心地よさを感覚を感じ、ある弟子は辛い感覚を感じるのでしょうか? 私は、もし体に灌頂のような心地よい感覚が現れたなら、それは私たちが以前、あるいはこの期間に良く修煉できていた証拠であり、師父がそのようにして励ましてくださっているのだと思います。一方で、もし体に不快でつらい感覚が現れたとしても、それを「良いこと」として受け止め、師父が私たちの身体を浄化してくださっているのだと理解するなら、それは修煉の中で自分の心性に問題があることを、師父が気づかせてくださっているのです。私たちはそこからさらに内に向けて探し、自分の執着心を見つけ出し、その執着心を取り除いていく必要があります。もし私たちの執着心が取り除かれ、心性が向上すれば、体の痛みも消えるでしょう。どちらの場合であっても、実は師父は弟子たちの心性を向上させ、師父について行き、一日も早く圓満成就して弟子が本当の家に帰ることを願っていらっしゃるのです。

 観念が変わった後、私は腰痛に対して新たな認識を持ちました。腰が痛む時、私は「これは良いことだ! これは師父が私の体を浄化してくださっているのだ、また一層の天体が浄化されました、師父ありがとうございます! 一度痛むごとに一層の邪悪が滅びる、どれだけ来ても私はその分だけ滅ぼす、普段あなたたち邪悪を探しても見つからないのに、今日はお前が自ら来たのだから、もう逃がさない、どれだけ来ても私は来た分だけ滅ぼす」と考えました。このように、これらの言葉を繰り返し念じ、その時々に心に浮かんだ言葉を念じ、腰の痛みの感覚を全く意識しませんでした。すると、私の腰痛が徐々に軽減していくのを感じました。

 翌朝起きて、動功を煉功している時『轉法輪』第二講にある「これは根本から業を滅してあげているからで、当然の反応が起きてきたのです。特定の部位に反応があり、あちこちに異状を感じ、さまざまな辛さを覚えますが、いずれも正常なものです」というお言葉を改めて悟りました。様々な辛さはすべて正常だと師父が説いてくださったので、私はさらに恐れがなくなり、修煉への自信が増し、正念もますます強くなりました。五式の功法を煉功し終えると、本当に腰の痛みはなくなっていることに気づきました。

 今回の腰痛を通じて、私は観念を変え、正念を持つことができました。一晩経ち、翌朝、五式の功法を煉功し終えると、この腰痛という病業の関は「悪いことも良いこともすべて良いことである」と考え、不思議にも乗り越えられました。今回の関を乗り越えたことで、大法修煉の不思議さと素晴らしさを体験し、同時に修煉への自信を深めることができました。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/4/18/492365.html