文／唐風

　【明慧日本2025年5月19日】中国最後の王朝・清王朝に多くの文人が筆記の体裁で当時の社会、生活の各方面を記載した文章は、総じて『清人の筆記』と名付けて編集されました。中には南宋の著名な愛国者三人を巡る一枚の硯に関する記載があります。

　南宋（なんそう、1127年-1279年）は、中国の王朝の一つ。北宋（960年-1127年）は中国東北地方の女真族（じょしんぞく）が建てた金に華北地区を奪われた後、皇帝が南に逃げて南の地に再興した政権を「南宋」といいます。杭州を「臨安」に改称し首都としました。「臨安」とは、「一時的にここに留まり、いずれは北の地に戻る」という意味を含んでいます。南宋の著名な将軍・岳飛（がくひ、1103年-1142年）は北宋の末期という乱世に生まれ、波瀾万丈な一生を展開しました。

　1、岳飛

　清のある文人が、岳飛将軍が使っていたとされる硯を手に入れました。硯の上には岳飛が書いたとされる銘文があります。「持堅守白、不磷不緇」この8文字は孔子が書いた『論語』に由来しており、「堅さといえば、どれだけ磨かれても薄くならない。白さといえば、どれだけ汚されても黒くならない」という意味です。これは、意志が固い人は環境によって自分の節操を変えないことを語っています。この銘文は岳飛の志向であり、彼の一生をも象徴しています。

　岳飛は幼い頃から勤勉で学問を好み、『春秋』、『孫子兵法』を熟読し、国に報いる志を立てました。19歳で軍に入り、軍人生活を始めました。伝説によると、岳飛が出発する際、母親が彼の背中に「精忠報国」の四文字を入れ墨で彫り込んだといいます。「忠を尽くし国に報いる」という意味です。

　1127年、中国北部の少数民族が建てた「金」という国が、北宋の都・開封市を攻め落とし、上皇の徽宗（きそう）と皇帝の欽宗（きんそう）を捕らえ、北宋は滅亡しました。欽宗の弟である高宗（こうそう）は南に逃げて、杭州を都にし南宋を建てました。失った北部の国土を回収し滅国の恥を晴らすことに心を砕いた岳飛は何度も、金の軍隊と戦う意向を高宗に上奏しましたが、かえって職を解かれました。1130年、岳飛は牛頭山で伏兵を設け、金の将軍・兀術（うじゅ）を大敗させ、南京を奪い戻しました。その後、金の軍は北に撤退を余儀なくされました。それから、岳飛は規律が厳しくて勇敢善戦な精鋭部隊、「岳家の軍（がくけいのぐん）」を建設しました。

　紹興9年（西暦1139年）、高宗と秦桧（しんかい）は金と和議を結ぶことにしましたが、岳飛はこれに強く反対しました。翌年、兀術が河南に進撃してきた時、岳飛は反撃しました。鄭州と洛陽などを次々と取り戻して、金の精鋭騎兵を大破し、朱仙鎮を占領しました。金軍の士気が落ち込み、「山を揺るがすのは容易だが、岳家の軍を揺るがすのは難しい」との嘆きを発しました。

　岳飛が川を渡ろうとした時、高宗と秦桧は宋軍に撤退するよう命じました。岳家の軍は孤立無援で撤退せざるを得ず、中原を取り戻す計画は失敗に終わりました。1141年、岳飛は兵権を剥奪され、12月29日には高宗と秦桧によって「莫須有（ばくすゆう）」の罪で殺害されました。「莫須有」とは何でしょうか。秦檜は岳飛を有罪にする証拠を見つけることができず、岳飛は実際に罪を犯したのかと聞かれた秦檜は、「莫須有」（あったかもしれないという意味）と答えました。この言葉は、現代では「でっち上げの」罪を表す言葉として用いられています。

　岳飛の息子の岳雲と部将の張憲も同じく命を落としました。宋の孝宗が即位した後、岳飛は名誉回復されました。1178年に武穆（ぶぼく）の諡号を贈られ、1204年に鄂王（がくおう）の諡号を、1225年に忠武の諡号に改められました。諡号（しごう）とは、貴人や高徳の人に死後おくる名前のことをいいます。

　北伐（ほくばつ）に出て、未だ達成されぬ志に悲しみと怒りを感じたとき、岳飛は「満江紅（まんこうこう）」の詞を書き残しました。時は1134年前後です。この詞は情熱的で、忠義の魂が溢れ出ています。千年経った今でも教科書に掲載されるなど、中国では広く知られています。

　憤怒のために髪が逆立ち、冠を突き上げるほどだ
　手すりに寄りかかる時、雨が降って止んだ
　空を仰ぎ、長い叫びを上げ、胸は激しく熱い
　三十年の功名は塵と土のように取るに足らない
　八千里の道は雲と月と共に昼夜兼行で駆け抜けてきた
　時間を無駄にし、若さが白髪に変わる時
　ただただ空しく悲しむ

　靖康（せいこう）の恥、まだ晴らされることなく
　忠臣の屈辱、いつになったら消えるのか
　戦車を駆り、賀蘭山（がらんざん）の谷間を突き破る
　壮士は侵略者の肉を食い、匈奴（きょうど）の血を飲みながら笑う
　奪われた国土を回収し、皇帝に報告できる日を待ち望んでいる

　2、謝枋得

　岳飛の死後、その硯は謝枋得（しゃほうとく）の手に渡りました。謝枋得（1224年-1288年）は江西省信州の出身で、南宋末期の政治家・学者です。

　1258年、モンゴル軍が南宋に大規模な攻撃をしてきたため、謝枋得は朝廷からの任命を受け、民兵の募集、軍資金の調達と饒州、信州、撫州の防衛を担当しました。謝枋得は家財を売り払い、あちこち駆け回り、1万人以上の民兵を募集しました。当時の首相の賈似道は降伏政策を採っており、謝枋得はそれに強く反対して賈似道の政策を批判し、その結果、左遷されました。

　1271年、モンゴルは国名を「元」に改めて、1275年、元の伯顔将軍が大軍を率いて南宋を攻撃しました。国の存亡の危機に際し、謝枋得は再び立ち上がり、朝廷に信州の防衛を依頼されました。謝枋得は自ら兵士を率いて敵軍と激しく戦いましたが、孤立無援のため最終的に失敗しました。

　1279年、元は南宋を滅ぼし、初めて異民族による中国全土を支配した「元王朝」を建てて、漢民族の士大夫（したいふ、知識人の意）を取り込むことを始めました。文名と威望がある謝枋得を取り込むために、元は5回にわたり説得役を送りましたが、彼は頑として拒否しました。1288年の冬、元は謝枋得を都の北京へ北上するように強制し、謝枋得は抵抗の意を表すために断食して、5日後に亡くなった。享年64歳。

　「息子および友人と惜別」の詩の中で、謝枋得は雪の中の松と柏をもって、自らの揺るぎない節操を例えました。

　雪の中の松や柏はますます青々として
　大義を支えるのはこの旅にある
　天下に久しく龔勝と伯夷※のような清廉潔白な人はいない
　義が高い人は命を捨てるのも惜しくなく
　礼を重視する人は死など軽いものである
　男として最後まで屈せず
　神様は全てを見ている

　※龔勝（きょうしょう）は前漢末期の人で、時の権力におもねることなく、潔白を貫いた。伯夷（はくい）は殷代末期の人で、節義・忠誠心・道徳観を重んじ、孔子や後世の儒者たちに極めて高く評価され、聖人に準じる人物とされた。

　3、文天祥

　謝枋得は生前、その硯を親友の文天祥（ぶんてんしょう）に贈りました。文天祥は受け取った後、その上に「硯は鉄ではなくとも磨き抜けるのも難しい、心は石ではないが石の堅さを持っている、それを守り抜けば道は自ずと全う」との銘文を彫りました。

　文天祥は江西省出身で、幼い頃から先賢（せんけん、昔の賢人）を仰ぎ見、忠臣を手本としました。21歳で国の科挙試験で優秀な成績を取って、最後の試験、つまり殿試（でんし）で改革案を提出して政治的抱負を表明し、皇帝によって第一に選ばれて、状元（じょうげん）の称号を取りました。

　1275年正月、元の軍隊は南宋に大攻撃をかけ宋の軍を破って、長江を越えました。文天祥は直ちに家財を軍資金に充てて、地元で3万人の民兵を集めて首都の臨安に向かいました。元の攻勢が激しいため、文天祥の民兵は勇敢に戦いましたが、孤立無援のために抵抗は失敗に終わり、最後にはわずか6人が残りました。

　翌年の正月、元の軍隊が臨安に迫り、朝廷の文官や武官たちは次々と逃亡しました。文天祥は城を出て元の伯顔将軍と交渉し、不運にも伯顔に捕らえられました。伯顔は文天祥を降伏させようと試みましたが、文天祥は死をもってしても屈しませんでした。結局、伯顔は彼を北方に連行しましたが、地元の義士たちの助けを得て文天祥は脱出に成功しました。その後、文天祥は各地に人を派遣して兵を募り、資金を集めて元との戦争を続けました。

　1278年の冬、文天祥は戦いに敗れて捕らえられました。元の皇帝のフビライは文天祥の才能を高く評価し、何度も南宋の大臣ないし降伏した南宋の皇帝を獄中に送り込み、文天祥を説得させようとしましたが、文天祥は一向に降伏を拒みました。フビライ自らが文天祥を召喚して降伏を勧めても、文天祥はフビライにお辞儀をするが跪かず、「死をもってこれに足りる」と答えました。フビライはやむなく文天祥の処刑を命じました。文天祥は処刑場で南（南宋の方角）に向かって拝して刑を受けました。享年47歳。

　文天祥は獄中で漢詩を書き残して自らの心情を表明しました。それが800年経った今でも讃えられる「零丁洋を過ぐ（れいていようをすぐ）」です。

　苦労して聖人の書いた書物を読み
　進士に及第して仕官し身をおこしたのであるが
　国難にあって戦争に従って４年の歳月を送った
　山河はつぶされて風に従う柳の花が漂うように
　自分の身も世の中を漂うて
　まるで雨にうたれる浮き草のようである
　皇恐灘のあたりでは、国家滅亡の恐れを説き
　零丁洋を渡っては、身の零丁を嘆くばかりである
　人生は昔から死なない者はないのであって
　どうせ死ぬならば、真心を留めて歴史を照らしたいものである

　一枚の硯が、三人の偉大な英雄の人生をつなげました。「磨かれども薄くならず、染められども黒くならず」の通り、真の強さと高潔な心は、暴力によって変えられることも、汚れに染まることもありません。