「真・善・忍」に同化した一粒子となる(四)
文/河北省の大法弟子
(明慧日本)
四、全体で向上することに協調する
同修達は私の作った経文と資料を受け取った後、ある人は資料拠点の費用としてお金を出そうとしました。しかし、私は自分の能力に応じた数だけの資料を作りました。全額を負担しても生活に困ることはないと最初に思いましたので、どの同修からも資料費をもらいたくありませんでした。ある同修2人は「それはだめです。すべての費用をあなた1人で負担してはいけません!」と言い出したら聞かず、仕方なく少しずつ2人から2千元余りをもらいました。後になってよく考えてみると、良くないと思いました。時には、私は作りたくても作れない物もあり、金銭をもらった同修にどう説明すればよいか困ってしまい、もらっていない同修にも平等に接しなければならないと考えました。
私はまた、同修達の待つこと、頼ることなどの依頼心を見ており、年配の同修達は自分たちで資料作りができなくても、同修の誰かが資料をもらっていないのを見ると、すぐに、資料作りの同修に命令口調で資料作りをさせ、しかも、何部を必ず作るようにと言うのです。私は同修達とこれらのことを法理において交流しましたが、すぐ悟ってもらえませんでした。年配の同修達はいつまでも、「あなた達は知識があり、パソコンもよくやっているしできるから。私達は年寄りで知識もなく、頭が硬くて何も分からないのよ!」という考えにとらわれていました。ある若い同修が彼女たちに勧められ、資料作りを始めました。しばらく経つと、若い同修は逮捕され刑務所に送られました。
表面から見れば、若い同修が修煉において隙があったように見えますが、実は「待つこと」「頼ること」「もらう事」しか考えない周りの同修が、その原因でした。また、ある年配の同修は常に材料費などを出していました。知識と経済力を持ちながら、自分で資料拠点を立ち上げるのは煩わしいと思い、やり方を教えてあげても嫌がりました。彼女に資料を提供する同修はすべて逮捕されてしまったため、「彼を救い出して、資料作りをさせないといけません」と口にし、一生懸命に知り合いに頼んで救い出そうとしました。
私達は師父の弟子で、人類文明を遥かに超える文化を学んでおり、できないことなどないはずです。年齢を問わず、私達にやりたい気持ちさえあれば、できると思います。頭を使いたくないとか、煩わしく思ったりして、他人に押し付けたりするのは禁物です。実は私達はお互いに2、3人で組を作り、正法修煉において切磋琢磨し、小さい粒子から大きい粒子になり、また修煉者としてそれぞれ自分の道を作り出し、成熟すべきだと考えます。
一時的に資料が手に入らない同修に対しては、助けるべきですが、ずっとそのままの状態ではいけません。すべてやってあげるというのは更にだめです。旧勢力は同修の一人ひとりに一セットの物を設定しており、修煉者各自は学法に励んで、法の威力を持ってこそ旧勢力の按排を砕くことができます。いわば、各自が法をしっかりと学んで、己をよく修めて、やっと各自の修煉の道をしっかりと歩むことができます。もし、自身が克服し乗り越えるべき難儀や関門を他の同修に押し付けたら、その同修に余分の難儀を加えたことになるではありませんか? それで、その同修がもし円満成就ができなければ、あなたにも責任があるのではありませんか? あなたは円満成就できますか? いつも、受け取ることしか考えず、金銭や体力を使うことを拒否するのは、修煉者の行いといえるのでしょうか?
私自身がこれを悟った後、同修と交流してから、同修から資料作りのための費用を受け取らなくなりました。しかし資料作りは今まで通りやっており、同修の中の誰かが助けが必要なとき、力を惜しまず助けました。資料作りしたいが、経済的に困難な同修がいれば、すぐに、自ら進んでプリンタを買ってあげ、あるいは、資金の援助をしてあげました。皆、納得してくれました。
このようにして、私は黙々と同修達に『明慧週刊』『正見週刊』をmp4で読めるように、テキストフォーマットに変えて、インストールができなかった同修がいると、資料を書き込んだUSBメモリをすぐに渡しました。また、同修達の勧めで、三退した人達の代わりに、脱党サイトで声明を発表する手伝いをしました。また、他の資料拠点の消耗品や機材道具などの買い物を手伝いました。それでも、自分がまた資料点に関する知識の勉強もしながら、三つのこともしっかりと行なったので、毎日大忙しなのですが、気持ちは爽快でした。
この一連のことで、私は内に向って探し、自分の執着心を見つけました。同修が支援してくれたお金は自分の支出の10分の1にも満たず、資料拠点の消耗品費としても足りないのですが、私が何かを買おうとするとき、同修への説明に苦しんでいました。また、年配の同修は、資料拠点への金銭支援をしていない同修に意見を持っているのも見かけました。でき上がった真相資料は衆生に配るため問題はないのですが、同修にあげた経文にも費用を出したくないのを見て、私の心は面白くありませんでした。私は同修に意見があったのですが、言えませんでした。
実はそのとき、私はすでに平常心を失い、同修を見下していました。同時に、法を得るのは容易なことではないため、大法から離れて修煉を放棄した同修が修煉の道に戻れるように、師父の新経文と資料を与えるべきだという正しい考えも持っていました。
よく探すと、自分は同修をわけ隔てる心を持っており、しかも結構大きいものでした。これは情ではありませんか? 常人の観念ではありませんか? これらを放棄しないと、慈悲心が生まれるはずがありません!
私は自分への戒めとして次のように考えていました。「自分が良く修煉していると思うとき、満足心・顕示心を生じてはいけません! 法にはさらなる要求があり、到達していないのに、喜ぶことがあるでしょうか? こういうときこそ、冷静になるべきです! 同修を見下す心を少しも持ってはいけません! 同修や他人を見下すのは自分を顕示したい心があるからです。同修が助けを求めるとき、できるだけ助けてあげること、法理において交流し合い何でもかんでもすべてをやってあげるのではありません。でないと、同修の頼る心を助長してしまうことになるだけではなく、正法の時間を延ばすことにもなりかねないからです。
師父は、大法弟子のすべては自分の修煉の道をしっかりと歩み、よく修煉し円満成就することを望んでおられます。当然ながら特別の事情があって、具体的な真相説明ができなくても、法理においては知っておく必要があります。全員で発正念をするとき、法力がより強くなるはずです。同修が自分よりよくできているのを見て、少しでも嫉妬心が生じてはいけません。もし、平常心を失い、心がモヤモヤしているときには、嫉妬心があると認識すべきです。よくできた同修を見て、内心から嬉しく思うのは真に修煉している現れです。
ある同修は、絶えず他の同修の所に資料をもらいにいくのですが、手に入れられない時がありました。それを見た私は、彼女に「自分で資料を作ってみる気はありませんか?」と尋ねました。「やりたいのですが、教えてくれる人がいません」と彼女が答えました。私は自分の知っているすべてを教え、彼女もよく頑張りました。しかも、もう1人の同修と組んで資料を作り始め、自分の周りの同修にも資料をあげているようです。私は心から彼女のために喜びました。
ある若い同修は、パソコンを持っており知識もあります。操作の手順も教えてあげ、他の同修の家で数回明慧ネットに入る練習をしたにも関わらず、恐怖心から抜け出せなかったため、いまだにできていません。彼が早く突破できるように祈っています。
いま明慧ネットには、各地で立ち上がった資料拠点の修煉体験を絶えず載せています。頼るばかりだった年配の同修も、法理において認識ができたようで、すでにパソコンを買った同修もいました。同修の指導の下で一生懸命に学んでおり、2〜3人で1組になり、自分の修煉の道を歩んでいます。
実は、「人に真相を説明する」「資料を作る」「資料を配る」「協調をする」これらは、すべて修煉の一部に過ぎません。万年に一度しか出会えない正法時期に、私達は自分の修煉の道を正しく歩みましょう。早く向上し、円満成就し、師父と共に家に帰りましょう!
(続く)
(明慧ネット第6回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)
2009年12月27日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/11/20/212813.html)
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