「真・善・忍」に同化した一粒子となる(五)
文/河北省の大法弟子
(明慧日本)
五、学法グループでの勉強、発正念し続ける
10年も真相説明を続けている中、私は数人の年配の同修と、ずっと一緒に学法してきました。皆と一緒に勉強するとき、法において法理を悟ることができ、また、相手の不足を見つけたとき、必ず先に自分の非を探すと同時に、慈悲を持って相手を注意し、共に精進しました。
実は、最も深く感じていたのは、一緒に学法しているとき、ほとんど毎日のように、自分の執着心を発見することができたことです。初めは、彼女達が読み間違いをよくしながら、その上、読むのも遅いと見て、ほとんど私が一人で読むことが多かったのです。同修達も私が読むとよく聞こえるからと言って、進んで私に読ませましたが、私はこのとき、すでに自分に歓喜心・顕示心があるのが見えました。以後、私は1人ずつで一段落を読むようにと提言しました。同時に、内心で同修達の読み間違いや読むのが遅いことを、嫌がってはいけないと自分に言い聞かせました。
そういうときこそ、穏やかな態度を持って、読み間違いを指摘し、忍耐強く彼女たちを助けるべきだと考えました。いかなる事を前にしても、どこにいても他人を先に思い、さらに、彼女たちの良いところを見つめるべきだと思いました。しかし、私の内心ではやはり、自分は読むのが上手だと自惚れていました。他人を軽蔑する不遜な心が深く隠されていると感じ、根こそぎにして取り除きたいと心底から思っていました。それで、発正念するとき、自分の身にもっている「真・善・忍」に同化できないものをすべて取り除き、常人の中で形成した変異した観念を徹底的に除去すると先に考えて、正念を発しました。
学法グループでの勉強を数年間通した結果、年配の同修は法をとても上手に読めるようになり、読み間違いも少なくなりました。真相説明においてもよくやっており、彼女達が衆生を救い済度することを大事に考えていることを見て、私は嬉しく思いました。集団で学法したことで、私たちは「法を学んで比し、修して比し、共に精進する」になりました。
修煉体験を書いていくうち、自分は法において認識が足りず、修煉がまだできていないと分かり、書くのも修煉のうちだと体得しました。師父の弟子として、私は人心を早く放棄し、真相説明を通してより多くの衆生を救えるようにもっと努力し続け、円満成就になって師父と共に帰りたいと思います!
不足のところがあれば、ご指摘をお願いします。
(完)
(明慧ネット第6回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)
2009年12月28日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2009/11/20/212813.html)
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