自分の心を正し同修と円融する
文/中国の大法弟子
(明慧日本) ある日の晩、同修がわが家に来て、私に「お守りを印刷したのですが色がよくないのはどういうことでしょうか」と聞き、お守りを一枚持ってきて私に見せました。私は数枚を取り出して見ましたが、確かに良い色ではなく、色合いと光沢が足りませんでした。私は彼に「一つは設定の問題、もう一つは消耗品の問題かもしれません」と言いました。
翌日、私はテーブルの上にあるお守りを見て、ある同修が「お守りが要る」といった事を思い出しました。同修に持って行こうとお守りを出して見た私は心が冷えました。同修はどうしてこのように大法の仕事をするのでしょうか?色合いがよくないのはそれでいいのですが、なぜこのように切ったのでしょうか? 半分は不良品の感じがして、だんだんいやな気持ちになってきました。
私は完璧を求める人間で、どんな真相資料も、いったん私の手を通したものは、心を込めてできる限り完璧にやり、人が見て心地良いと感じられるようにします。こんなお守りで衆生を救い済度できるでしょうか、同修の前に出せないので、やはり彼に返そうかと思いました。
この考えが出たとき、私は思わず数日前に起こった事を思い出しました。2人の同修がわが家に来て、このようなお守りを一包み持って来ました。当時私は心性をしっかり守れず、その場で彼女たちを「大法のことは遊びではなく、心を込めてやらなければなりません」と責めました。
これは偶然なことでしょうか? 修煉に偶然な事はありません。事が私のところで現れているから、きっと私の心に問題があり、私の心に対して来たのです。私は自分に向かって探し始めました。そうしたら沢山の人心が現れていました。他人を寛容できない心・上の立場でよく人を責める心・自分勝手な心・穏やかでない心・自分をもとに他人に要求する心・名利心・面子を重んじる心などなど。
私がこれらの心を探した時、私の心は落ち着きました。私はお守りを取って、心を込めて、一つ一つの小さな命を修復しました。できるだけそれを完璧にして、衆生を救い済度する中でその作用を発揮できるようにしました。
表面上では私がお守りを直したように見えますが、実際には私の完璧ではない心を整え、同時に同修と円融していたのです。
お守りを全部直したら、私の心も明るくなってきました。
自分を正し、他人を円融することこそ大法弟子のあるべき状態なのです。
2009年12月31日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2009/12/29/215268.html)
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