給料の問題から自分の執着を考える
(明慧日本)職場で一緒に働いている同僚が産休を取ったので、私の仕事量が増え、1人で2人分の仕事をやらなければなりませんでした。私はまた、スーパーマーケットで仕事をしており、イベントのある日はなお忙しくなります。そのため実際の仕事量に比べて給料が低いと思い、給料のアップを求めたいと思いました。
しかし心では葛藤がありました。会社に給料のアップを求めるのは修煉者の基準なのでしょうか? しかし、会社側から職員の給料を上げたことは今までなかったため、ずっと決める事ができませんでした。
師父はおっしゃいました。「往々にしてトラブルが発生する時、それが人の心の奥深いところを刺すような激しいものでないと煉功の効果が上がらず、向上につながりません」。(『転法輪』) このとき、ある同僚は私に、誰々が私より給料が高いと話して、自分の利益の心が刺激されました。自分がやる仕事の量は多く、一番熱心に働いているのにと思いました。
他の同僚は担当した分野が違っており、彼女は暇なのに私より給料が高いので心のバランスが常に崩れます。自分が忙しくない時は構いませんが、忙しくて手が回らない時に、彼女がゆっくりお茶を飲んだり、インターネットをしたりするのを見ると、腹が立ってたまりません。これは嫉妬心によるもので、他人の良い様子をみて、他人のため喜ぶのではなく、心のバランスが崩れます。常に上司が能力不足で、リーダーシップがなく、仕事の段取りがよくないと恨みました。
師父は『精進要旨』の「境界」で「悪い人は嫉妬心の行き着く末に、自分のため、怒りのために、自分のことを不公平だと言います。 善なる人は慈悲心が常にあって、憎むことなく、恨むことなく、苦をもって楽とするのです」と、おっしゃいました。私は最低の善の心も修めませんでした。昔は嫉妬心が自分にはないと思い込んでいましたが、このことを通じて、自分の嫉妬心と金銭にこだわる執着、安逸心などなどを見つけました。
大法弟子として、多くの時間と気力を費やして仕事を良く行ったから、会社に給料のアップを求めてもよいのでしょうか? 自分の考えではこれではいけません。修煉者の基点は違うもので、私達がこの世間に来たのは自分を良く修めて、衆生を救うためで、良い暮らしをするためではありません。日ごろ、衣食住に問題がなければそれで良いのです。師父はおっしゃいました。「修煉者であるわれわれは、なおさらそのようにすべきではありません。修煉者は自然に任せることを重んじるべきです。自分のものなら、無くなることはないし、自分のものでなければ無理に争っても得られません」。(『転法輪』)
修煉の道では偶然なことはなく、自分の心に触れて、自分が心のバランスを失うことは必ず私達が修めて捨て去るべきものです。執着心が表れるのは、実際は人の思惟で、理で物事を考えているからです。実は私達は法の基準で自分を律するべきで、全ての全ては全部大法に由来するものです。「求めずともおのずと得る」ことは師を信じて法を信じる現われです。
個人の認識で、同修の慈悲なる指摘をお願いします。
2010年3月31日
(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2010/3/18/219993.html)
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