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大法弟子は無条件で内に向けて 自分自身の是非を問う


文/中国の大法弟子

(明慧日本)最近、私の地区では同修の間のトラブルによって、互いの協調と調整がうまくいかないことが目立っています。ここで、私はこの問題に対する自分の意見を述べたいと思います。もし、法の教えと違っているところがあれば、慈悲なる訂正と指摘をお願いします。

  我々は修煉の途中にあり、周辺で起きているすべてのことは間違いなく自分の心に向かって是非を問い、さまざまな執着心をなくさないといけません。この点に関して、おそらくだれも異論はないと思います。実は何に遭っても大法弟子は必ず無条件で内に向かって自分の是非を問わなければなりません。

  同修間の矛盾を整理すると、次のいくつかであると考えられます。

 (一)自分は法に基づいて考えていないが、相手は法に照らして考えている。
 (二)自分も相手も法に照らして考えていない。
 (三)自分は法に照らして行動したが、相手は法に照らして考えていない。
 (四)自分と相手の両方が法に照らして行動している。

 (一)の場合は簡単に解決できます。トラブルが起きたら、内に向かって自分の是非を問えば、相手が正しいことに気付き、自分が常人の思いで考えてしまったことに気が付くと、当然自分を正すことができ、心性を高めることができます。

 (二)の場合は両方とも常人の心をもったので、内に向かって自分の行為の是非を問えば、自分も相手も間違っていることに気付き、法に照らして自分を正すことができ、心に悔いも残らず納得できます。

 (三)と(四)の場合は、自分が法に照らして考え、法に基づいて行動しているので、その時こそ、同修の間に問題が最も生じやすいのです。明らかに相手が間違っているにもかかわらず、相手は正しいような行動を取ります。明らかに自分が正しいのに、相手は認めません。その時、さまざまな考えが現れてきます。不満、不平、怒り、文句、自分の正しさを強調する、相手を説得する、相手を変えようとする等々の行動に出るため、トラブルがますます大きくなり解決できないのです。

  しかし、その時、自分が絶対「正しい」と訴えるとき、この後ろに大きな「自分」が存在しています。自己中心」の旧宇宙の生命の根本特性が、このトラブルを生んでいるのです。この時に「自分」に執着する心を変え、心から相手の立場に立ってものごとを判断しなければ、いくら内に向かって自分の是非を問うても、相手を許す慈悲のある行動に出ないのです。自分が正しいという考えを完全に捨てて、法に照らして純粋な心で考えなければ、いくら内へ向かって探しても、「自分が正しい」ことしか見つからず、「異なる次元に異なる法が存在する」という広大な法の深い意味を理解できないのです。

  「横から望めば嶺に見えても、傍から望むと峰になる」 遠くから近くから、高いところから低いところから見れば、それぞれみな違うのです。このように昔の人が見た真理は、大法弟子なら簡単に分かると思います。しかし、同修の間にトラブルが起きた時、自分が正しいという一面だけを見て、自分の正しいところだけを強調し、自分のために弁護し、その時、法は円容であることを忘れてしまうのです。異なる次元では異なる法が存在していますが、我々はいつも自分が正しいという側面だけを見てしまうのです。

  したがって、ほかの側面もあることを忘れてしまい、自分を強調して自分の正しい一面から相手に攻め込み、自分を絶対に変えようとしないのです。その時、大法の修煉とはすべて自分の是非を内に向かって問うべきであること、大法は我々にすべてを慈悲のある心で包容すべきであるという要求も忘れるのです。我々は相手に文句を言う時、他人のことに干渉する時、それは大法のため、同修のためだと自己弁護をするのですが、この「・・のため」ということの背景に大きな自己への執着心があることに気付いていません。

  自分が理解した法の理屈で他人を評価し、他人に要求するのです。他人の足りないところ、欠点を許すのではなく、慈悲のある心で包容して、自分の心を法に照らすのではなく、自分の力で一生懸命に相手を変えようとするのです。これこそ、旧宇宙の生命の根本的な特性の完全な表れなのです。旧勢力はこうして自分自身に執着する一部の大法弟子を迫害しているのです。

  我々は自分が「正しい」と思っているときも、必ず無条件で内に向かって自分の是非を問わないといけません。自己執着の根本特性を変えないといけないのです。仮に我々が本当に「正しい」時でも相手の「正しくない」ことを、慈悲の心で許さなければいけません。我々が「正しい」時も自己執着を捨てないといけません。相手の立場で考え、相手の方法でも法を実証することができるかもしれません。法を実証するためなら、無条件で自己を捨てて、同修と協調しないといけません。仮に相手が本当に間違っても、自分のベストの方法を見せながら、黙って円容しないといけません。

  大法はすべてを円容しています。私が思うには、我々が本当に無私で、完全に法に同化することができた時、我々は相手の意見を善意で聞くことができるようになるのです。常人社会で起きている様々なことに対して正しく判断し、慈悲の心ですべてを包容できます。完全に相手の立場でものごとを考えれば、自己中心の私心が完全に消えてしまうのです。法を実証する行動は完全に自己をなくして、どんな場合でも包容できるようになり、同修たちと協調ができるようになるのです。わずかなトラブルも自分から生じさせないようにすれば、旧勢力はどうすることもできないのです。

  2010年4月18日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/4/16/221477.html

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