新経文「更なる精進を」を読んで感じたこと
文/北米の大法弟子
(明慧日本)師父の新しい経文「更なる精進を」が発表されてから、私は十数回読みました。読めば読むほど感慨深く感じました。次に、私の理解を書き出して、これから残された少ない時間内にもっと多くの人を救い、師父を失望させないようにしましょう。
今の問題と原因
今、私たちが直面している最大の問題は、人を救う効率が悪く、救う人数が少ないことだと思います。この結果になった原因は、今の私たちが大法のことをする時に互いに協力し合わないことです。一部の重要な人を救い済度するプロジェクトを実施する前に、皆が自己主張して早く同じ認識に統一することができません。そして、プロジェクトを実施する過程で、人の次元の要素を強調しすぎて、たくさんの人手が必要な所が困っています。時には、私達が自分の考えを強調しすぎることが原因で、重要なプロジェクトはスタートすることさえできず、結果的に何もできませんでした。
これは本当に心が痛ましいことです。それだけ衆生が救い済度されるのを待っていて、たくさんの人を救う仕事が待っているのに、私たちは力を合わせてやることができません。師父と神々は焦っておられて、衆生は救うことを待って悲しんでいます。
どうすればもっと有効的に人を救えるか
師父は私達に、答えを下さいました。「それでは、現在から、皆さんに教えますが、各プロジェクトの主要責任者、最高責任者はそのプロジェクトの代表です。各地の佛学会の最高責任者も含めて、彼はこのプロジェクトの代表です。彼が行ったこと、要求したこと、下した決定に対して、無条件に実行し、(熱烈な拍手)今からこのようにします」(「更なる精進を」)
この「無条件に実行する」ことは、人を救い済度するプロジェクトにとって極めて重要です。なぜ無条件に実行するかというと、私は次のように理解しています。普通のプロジェクトをすることにおいて、共同の目標に達するため、常人の団体や会社にしても決断する人が必要です。決定してから皆が実行して、全力で無条件にサポートします。私達修煉者にとって、最大限に人を救う効果を収めるために、もっと皆さん全体が力を合わせて、無条件に支持することが必要です。修煉の角度から見ると、私達は師父に随って大法を修煉しているため、無私無我、他人優先の正覚にまで修めなけれななりません。もし、「無条件に実行する」ということに対して、自分には難しい、放下できない、すぐにできないなどは、自分の原因によるものだと思います。例えば、「私の誇り」、「私のプライト」、「私の観点」、「私のアイデア」、「私の角度」、「私の困難」、「私の志」、および「私の好み」など無数の「私」があります。もし、真に自我を放下していれば、無条件に実行することも難しくないはずです。また、使命と言えば、私達は人を救う神聖な誓約を交わしたのであり、「あなたは当初、神の命と引き換えに」(『ヨーロッパ法会へ』)、今の人間社会に来て人を済度しに来ました。当初、人を救う願望を持って、神の生命をも放棄することも構わなかったのです。しかし、今は自分の物ではない執着のために使命と誓約を百パーセント達成できなければ、本当の自分および衆生にとっては悲しいことです。
さらに、無条件にプロジェクトの責任者の同修を支持するならば、私達自身の修める次元が低くなるかという問題について、師父は否定されました。師父は『大紀元会議での説法』中で、「正式な管理の際、大法弟子はそれぞれ、一つの分担を与えられます。分担は修煉の次元の高さを意味するのではありません。編集者、記者になったり、普通の仕事を担当することになったりしたからといって、修煉の次元が高くなったとか、低くなったとかのことではありません。このような関係はありません。ご存知のように、今まで修煉界では、最も苦労して、最も下にいる人は修煉が最も良くできています。仕事の分担は仕事内容の違いであり、修煉とは関係なく、同じではありません。修煉は人間の心を修めており、どの環境、どの階層においても修煉できますが、ある社会階層は高く修めることができ、ある社会階層が高く修めることができないということではなく、そういう言い方はありません。修めるとは、心性の境地と、大法弟子の衆生を救い済度することに対する責任と態度を指しています」と説法されました。
長期にわたって最前線にいる責任者を尊敬する
会社には社長が必要で、楽団には指揮者が必要で、プロジェクトには責任者が必要です。先頭に立つ人がいなければ、どんなことも順調に実施することができません。十年来、長期にわたって最前線に立って指揮する同修がいなければ、人を救い済度するたくさんのプロジェクトは今日まで運営できません。同じように修煉していて、同じように常人の仕事と生活を持っており、責任者が受けたプレッシャーおよび奉仕したことは普通の人よりはるかに大きいのです。しかし、私たちの私心があり、自分の観点や意見が採用されなかった時に、責任者たちの困難への配慮もなくなり、黙々と円融することができないのは言うまでもありません。この点について、私は同修に申し訳ないと思います。彼らの奉仕は、私達が尊敬すべきです。
プロジェクトを実施する事について、責任者への支持が足りないほか、修煉においても責任者に対して厳しく見ています。修煉は平等なものです。しかし、多くの場合、同じく修煉している責任者の同修へ寛容の心をもっていません。神の基準をもって彼らを律し、いつも責任者達が皆に納得さればならないと思っています。しかし、これは現実的な考えではありません。責任者とくらべて、私達はそれほどの負担がないのに、自分たちの家族、友人、同修の前でも高い基準に達しておらず、皆に納得させることができていません。以前の私は責任者の同修によく指摘し、怨念をもって慈悲ではありませんでした。今回、師父はすべての人に「今から状態を変えなければならず、このように行うべきです。」(『更なる精進を』)とおっしゃいました。すべての人にとって非常に大きな激励となります。
最後に、師父は今回のワシントンDC法会で明確に、大法弟子の協調の問題に対する新しい要求を出されたことについて話したいと思います。新しい要求の下で、今の段階で、いかなる理由でも衆生を済度するプロジェクトに参与しない同修は、本当に責任があると思います。正法の進展は無限に待ち続けるものではありません。人類の道徳が落ちて、絶えず邪悪に人を壊滅されている今、私たちは人を救う使命を怠ってしまったら、無数の生命を失望させ、真に生命を失わせるのです。その最後の時刻がやって来る時に、私達も自分の慙愧と悔しさに溺れることになります。
以上は個人的な認識であり、慈悲にご指摘ください。合掌。
2010年8月4日
(中国語:http://search.minghui.org/mh/articles/2010/8/3/227896.html)
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