日本明慧
■印刷版   

寛容


文/聞悟

 (明慧日本)なぜ寛容が必要なのでしょうか? これは一つの美徳であり、修煉者が慈悲を持てる一歩前だからです。寛容がなければ、慈悲など言うまでもありません。誰でも、修煉者でも社会の中で過ちをすることがあり得ます。この過ちのなかで、一部の人の利益を損失させ、さらにトラブルを引き起こします。トラブルをいかに処理するかについて、寛容を避けては話になりません。

 海が広いのは、すべての川が海に注ぎ込んでいるからです。修煉者は大きい威徳を樹立するため、広い心を持たなければなりません。一部の同修は、何かがあって互いに言い争ったりします。「なぜこのことを彼はこうするの?」「なぜ彼はいつも大法に泥を塗る行為をするの?」「学習能力がない」とか、常人の中でも、子供に対して、似たような言動をします。「もう何回も言っているでしょう。どうして同じことをするの?」 自分の配偶者にも「家の中を見て! ちょっとは片づけてよ!」など感情的な言い方をします。感情をコントロールできない話し方は、みな法に適っていない表れです。

 なぜ、人に対して寛容にできないのでしょうか? これは「自己中心的」「相手が自分の観念と一致しなければ気が済まない」という心、あるいは「誰かが自分の利益に触れたら承知しない」「寛容や思いやりの伝統文化の教育を受けておらず、中国共産党の闘争の文化が影響している」ことが原因だと思います。

 以前の私は、家族や同修によく要求し、自分の観念に符合しなければ不平に思い、表面上では平静を装っていますが、心では放下できていません。人を寛容できないことは、まさに自分の漏れであり、自己中心の心の現れです。人に厳しくするのは、心が狭いからです。

 最も根本的に法に適っていないのは以下です。

 (1)外に向かって探して、相手の欠点を見て、自分を反省できません。迫害を含め、何かあったらまず自分の不足を探すべきだと師父はおっしゃっています。

 (2)着実に修めることを重んじていません。自分の空間場が汚く、執着が多すぎて寛容できません。師父がおっしゃったように瓶の中に汚いものがいっぱいあれば、外に出さない限り向上できません。

 「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います」(『精進要旨』「境界」)であるため、「善人は慈悲心が常にあり、憎むことなく、恨むことなく、苦をもって楽とするのです」になりたくても、真に学法して苦難な修煉を経て、法理をもって執着をなくさなければ無理です。

 私が住む地区に、ある男性の同修がいます。彼が大法を修煉していることを皆知っていますが、ある日、彼が近所の人と喧嘩をして悪い影響を周囲に与えました。たくさんの同修は彼を許せなかったのですが、当地区の協調人は、そうではなかったのです。協調人は、他の人が彼から遠ざかっている間、積極的に彼と交流して一緒に学法グループに参加させました。彼も大変反省しました。それから彼は、以前のかんしゃくを改めて、真に修煉し、いろいろな真相を伝える活動に参加しました。一人の同修を寛容すれば、一人の同修とさらに多くの衆生を救うことができます。これこそ、師父が要求されたことではありませんか? どれだけ過ちを犯しても、同修の心に法さえあれば見捨ててはなりません。

 寛容は美徳です。修煉者にとって自我に執着しない表れです。大法修煉者が内に向かって探す表れであり、同修間での隔たりが突破できる要因です。寛容があれば嫉妬や不平がなくなり、和やかな善の場が形成されます。

 不足な点があればご指摘してください。

2010年8月12日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/8/1/227782p.html

■関連文章
慈悲をもって迫害を受けた同修に接するべき
環境は衆生を済度するために作られた(一)
法の中で自分を浄化する(二)
心をこめて真相を伝え、慈悲を持って衆生を救い済度する
教え子に脱党を薦める
同修の間のトラブルについて
真に内に向けて探し、よく修煉できてこそ、衆生を救い済度することができる(一)
大法を修煉すると良いことがたくさんある
親友の法輪功に対する誤解が消えた
慈悲を持って迫害を暴露する