日本明慧
■印刷版   

海外の同修へ:師父と法を信じることについて(二)


文/中国の大法弟子

(明慧日本)ある意味において、努力は正しいことです。しかしながら、人間の考えに固執して努力することは間違いとなります。何かを成し遂げることは正しいことですが、人間の考え方に執着してより良くしたいとすることは間違いです。常人の中で私たちがこのようにすると、私たちは人のものを自分の手に入れてしまい、得るべきでないものを得たことになります。法を正す中でこのようにしたら、正法を妨害することになります。人間は、常に何かを得ようと、何かを成し遂げようとしてきました。なぜならば、「自分」がそれをしようとしているのであって、決して自分たちが努力して師父のおっしゃったとおりにしているのではありません。大法の原則に則って行えばおのずと成功します。あらゆる不足も、その過程で師父の法身に見守られています。なぜならば、あなたは師父の指示通り、大法の原則通りに行っているので、すべてがうまくいきます。たとえ漏れがあったとしても、最後は師父と法の力によって円融されます。すべての大法弟子が師父の指示通り、法の原則に則って実行できれば、すべての大法弟子の欠点も正され、全体の問題もなくなります。それと同時に、私たちが大法を円融することになります。
 
 問題は、多くの修煉者が認識できていないことです。法を正すことにおいて、私たちが成就するものはなく、すべて師父が成就されたのです。私たちが成就したものも、師父が成就しようとする目的に達するための過程に過ぎません。どのような方法であっても、不足があったとしても、結果は同じです。なぜならば、その結果は師父が成就されたものだからです。私たちの努力は過程に過ぎず、自分の方法で師父の欲する結果を成就しているのであって、決して私たちが何かの結果を作り出したのではありません。
 
 さらに、一部の海外の大法弟子が中国の文化への理解が深くありません。自由社会では、何でも自由かもしれませんが、中国の5000年の歴史の中で、師父の教えが絶対なのです。そしてそれは神によって残された伝統的な文化なのです。佛家であっても、道家であっても、どの法門であっても、ひいては工場から町工場まで、師父と弟子の関係はそのように受け継がれてきました。ある法門の弟子になりたければ、師父の教えに必ず従わなければなりません。大法の原則の中に、私たちが不満と感じるものがあるのでしょうか? それとも私たちの師父を疑っているのでしょうか? 師父の教えについても、自分の個人観念に合わなくなると、従わなくなる人がいます。「自由」は常人にとっては非常に重要なことですが、修煉の中ではそのような含みはありません。ですから、一部の優秀な修煉者が自分のやり方に固執したり、相手に対する意見が多かったりするのです。修煉者にとって、その法門に入ってしまえば、その法門の師父が自分を円満成就させることができると信じているからです。なぜならば自分には法がなく、自分自身を解脱させる力がありません。師父の教えに完全に従って初めて円満成就できるのです。師父すら完全に信じられなければ、どうやって修煉するのでしょうか?
 
 師父がヨーロッパの合唱団について、「私は時々思うのですが、皆さんの合唱は本当に神韻のような作用を果たし、人を救うことができるのでしょうか? 実はなかなか難しいのです。この合唱団は衆生を救い済度することに実際の作用を果たすことができなければ、それほど大きな意義がありません」(二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法)と説法されました。中国語としては、すなわちこの形式をあまり肯定していないことになります(率直にいうと)。そうであるならば、私たちはそれをやるべきではありません。個人の感情を放下して、師父が何を成就されようとしているのかに全力を注ぐべきです。
 
 師父は、神韻を主流社会に広めるようにと要求されておりますが、一部の修煉者は、慈悲には貧富の差別はないと唱えています。しかし、師父がそのように要求されていないので、神々もそのような修煉者を助けないし、師父が成就しようとする要素の中にも含まれていません。ですから、強引にやろうとすると、うまくいかなくなります。私たちが成就しているのではなく、師父がされているのです。師父が主流社会、良い劇場、赤字を出してはならない、とおっしゃっている以上、私たちがそうなるように実行するだけです。戦場では、将軍と軍令を言い争う人はいるのでしょうか? 私たちは本当に師父を信じているのか、自分自身に問いかけるべきです。師父は誰でしょうか? それを知る存在はいません。しかし師父は「主(全ての王の中の王)または主、佛、道、神が一体になった王の中の王」(米国東部法会での説法)とおっしゃっていました。師父は宇宙を正す存在です。ならば、師父の神韻も世界最高の劇場で上演されるべきではないでしょうか? しかし、小さい会場を探す人がどうしてもいるのです。そうなると、私たちは根本的に師父が誰なのかを知らず、そして師父を信じていないことになります。
 
 以上、述べたことはこれまでに多くの修煉者が強調してきた話題ですが、海外の大法弟子たちにはっきりと認識してほしいのです。私たちが師父に手伝って法を正しているので、正法の成就者ではなく、そして正法の創造者でもありません。困難、妨害にあったら、まず自分のやり方が師父の要求からそれていないのか、自分の考え方が師父の要求からそれていないのかを見るべきです。
 
 以上は個人の考えに過ぎず、不足があればご指摘をお願いします。
 
 (完) 
 
2010年11月22日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2010/9/25/230096.html

■関連文章
海外の同修へ:師父と法を信じることについて(一)
正念は強盗を退治することができる
互いに協力して昔の同修を呼び戻す
衆生を救い済度する中で、師父の偉大さに気づく(二)
衆生を救い済度する中で、師父の偉大さに気づく(一)
正直な話をすれば、世の人々は真相を容易に受け入れる
同修を救うため、発正念を怠けてはならない
同修からの正念あふれる一言が大きな力になる
孤立し堅く閉ざす同修をもっと助けよう
最近、真相を伝えた中での悟り(一)