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口を修めることは、責任を負うこと

(明慧日本)口を修めることについて、少し問題を発見しました。それについて認識できましたので、書き留めて同修と交流したいと思います。
 
 一、修煉しない家族に対して口を修める
 
 この問題はとても重要です。修煉しない家族に何も話したがらない同修もいますが、同修との間のことも含めて、家族はとても身近にいて、とても信頼できるので、あることを忘れています。彼らは常人なのです。常人がどんなに良い人でも私欲が働くものです。いったん自身の利益が損をすれば、もしくは自分の家族を守るためであれば、私欲に働く本性が暴れ出し、同修を傷つけ、法に損失をもたらしてしまい、とてつもなく大きな罪を犯すこともあります。このような不必要な事件を起こさないために、他言してはならないことは家族に軽々しく話さないことです。これは家族に対して責任を負うことの体現でもあります。
 
 二、新しい修煉者に対して口を修める
 
 同修との間のトラブルやごたごた、執着心や恐れる心を引き起こしてしまうような話は、新しい修煉者の前でしてはいけません。新しい修煉者がその道を正しく歩めるかどうかは、身近にいる修煉者と直接関係しています。たとえば、新しい修煉者がいつも同修同士のトラブルやごたごたを聞いて理解できず、「なぜこんなにも互いに腹を探り合って暗闘するのだろう?」と思ってしまいます。彼はまだ法についての認識が浅く、まだ常人のレベルであり、いったん同修や法に対し誤解を招いてしまったら、彼を落としてしまうか、もしくは修煉の過程で不必要な障害を作ってしまいます。法を得たからと言って、長年修煉した者と同等にみてはいけないのです。我々は十数年も修煉して今日に至ったのです。彼らに対して責任を負うべきです。
 
 三、常人(修煉していない家族も含む)の前では同修の不足を言わない
 
 あなたがその常人とどんな関係であっても、同修の不足や指摘をしないことです。常人は修煉者の精進を知らないからです。同修に対するイメージの損傷は法に対するイメージの損傷でもあります。真相を知らない常人は、法を深く理解することは不可能で、大法弟子の態度だけを見ています。大法弟子に対する見解は法に対する見解でもあり、いったん大法弟子に対し悪い見方をしてしまえば、救われないかもしれません。たとえ真相を知っている常人や法に賛成する同修の家族でも、いったん大法弟子や法に対して誤解が生じたら、同様に救い済度することに影響を及ぼしてしまうのではないでしょうか? これはとてつもなく厳重なことなのです! 我々はこれらの問題を重視し、衆生に対し、本気で責任を負わなければなりません。私は、ある同修が常人の前で不意に同修の不足を話したのを聞いたことがあります。
 
 私が思うに、同修はまだこのことを認識していないのです。もちろん、同修の前でも他の同修のことを話題にしたり、とやかく言ったりしてはいけないのです。そうすれば、心性面でつまずくだけでなく、我々がいったんこんなことをしてしまえば、同修が口を修められず、修煉しない家族や常人に言いふらせば、同じように法に対して常人たちは悪い見方をしてしまうのではないでしょうか? 結果は同じように厳重なことではありませんか?
 
 口を修めることは、修煉者に不必要な業を招かないように、責任を負うことでもあります。それは衆生や、同修、自分自身、そして法に対して責任を負うことになるのです。
 
 不適切なところは慈悲なるご指摘をお願いします。 
 
2011年01月07日

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