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闘争心を解体する(ニ)


文/貴州の大法弟子 金進

(明慧日本)なぜ私は悟るのが遅いのかと心から悔やみました。師父はとっくに啓示されています。「皆さんは人間の状態を変えようとせず、理性からも大法を真に認識するまで昇華しようとしなければ、機会を失うことになります。皆さんは、常人として百年千年来、骨の髄までしみ込むように形成された人間の理を変えなければ、人間としての表面の殻を取り除くことはできず、圓満成就できません」(『警告の言葉』)。数年来、毎日学法しているものの、知識を吸収する勉強に留まり、根本的に自分の心を修めず旧勢力が按排した道を歩みました。
 
 師父はすべての弟子に修煉の道を段取りされました。入学試験のように、いつ小学校を卒業し、いつ中学校に入り、いつ高校の試験を受けるかなどです。しかし、小学校レベルの試験にさえ合格できず、人心を放下できないのは、修煉者としては小学生にすぎません。この状態は常人にも及ばないかもしれません。「皆さん考えてみてください。常人でも年配の人、教養レベルの高い人は、品格を重んじ、他人と同じように争わないよう心がけています。ましてわれわれは煉功者です」(『転法輪』) 私のような対処の仕方で、心性の向上がありえるでしょうか? 功や次元を高めることができるでしょうか? 我々に望みを託している無量の衆生を救い済度できるのでしょうか?
 
 修煉者の立場から見ると、人間どんなことを放下することができないのでしょうか。数千年の輪廻、幾万年の待ち望んでやっと今日、大法を得ることができました。すべてが夢のようです。修煉しない常人、根本的な執着を取り除くことができずに円満成就できない人にとっては、一生は数十年の世界です。我々は師について幾重もの次元から降りてきて、人間になり、数千年の文化を受けましたが、人間の怨念、愛と恨みなどに執着しても仕方がありません。
 
 深く自分のことを分析して、数年来この頑固な執着心をなくせない原因を探しました。一つは、学法が足りず、修煉を重視していないことです。もう一つは、修煉の厳粛性の認識不足です。自分が修めなければ、自分の世界にいる衆生は救われません。こうなると、これらの衆生は淘汰されると絶望して、私を恨みます。そうすると私が妨害されて、悪循環になります。実は次元を向上させ、按排された難関をすべて受け入れられる能力は、我々の根基によるもので、真に修煉者としての自覚を持てば乗り越えられるのです。
 
 私はその頑固な人心を放下できない原因が分かった後、両手で結印して、師父にお願いしました。「師父、私が悪かったです。師父にお手数をお掛けいたしました。私は過去の過ちを補いたいのです。人間の名利や情はすべていりません。私の空間場の中の腐敗した物質をなくしたいので、ご加持をお願いします」という念を発したとたん、体中が軽くなり気持ちが良くなりました。その時に、頭の中は空白になり、言葉では言えないほど不思議な状態でした。
 
 もっと驚くべきことがありました。私が真に内に向けて探し、執着心を根源からなくし、師父が私の空間場の中のよくない物質を取り除かれた後、同修が別人のように態度を変えました。同修も自分の執着心を認識して、私たちの間が一気に和やかになりました。実は、すべてが幻像で、すべては人心によるものでした。しかし、私はこれらを悟るのが遅かったのです。
 
 私の経歴を書くことで、私の教訓が他の同修の警告になればと思います。そして、他の同修も闘争心が強いと私は見ています。皆が心を静めて、冷静に考えましょう。我々は何のために生きているのか、何のために修煉しているのかを考えましょう。時間は待ってくれないのです。もう家族、友達、同修に自分の「個性」を見せないでください。常人の個性とは何でしょうか? それは後天の観念です。修煉の道にある障害物であり、その後ろには人心が隠れているのです。
 
 (完)
 
2011年01月30日

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