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発正念をすると同時に、内に向けて探すことについて

(明慧日本)12年間の正法修煉を経て、大法弟子はますます成熟し、理性的になっています。多くの問題に直面したとき、私たちがどんな方法を取るにしても、それらを内に向けて探すことと切り離して考えることはできません。「内に向けて探すことは最も有効な方法です」(『二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法』)
 
 修煉の初期の頃、師父は私たちに内に向けて探すことを非常に厳しく要求され、大法弟子もこの方面を重視し、自分に対して厳しく律していました。師父のこの要求は、外部の環境の変化によって変わるものではありません。一方、正法修煉の中で、師父は私たちに神通力を与えられ、私たちは発正念で異なる空間の妨害を取り除いています。個人的な理解ですが、発正念と内に向けて探すことは、お互いに取って代われるものではなく、一方のみを重視し、もう一方をおろそかにしてはなりません。今回、私の地元で神韻が開催されたときに起きた一部の現象を書き出すことで、同修と交流したいと思います。
 
 神韻のチケット販売で妨害に遭った時、多くの同修は発正念を重視すべきだという考えを持っています。このようなとき、地元や他の地区から同修を集めて、高密度かつ長時間の発正念をしています。当然ですが、発正念には効果があります。しかし、私たちが発正念をちゃんと行っているにもかかわらず、チケット販売が依然として進展しないとき、私たちは自分の原因を探すべきではありませんか?
 
 ある同修は、たとえ私たちに漏れがあったとしても、それを理由にして邪悪が妨害を行うことは許されず、根本的に旧勢力の按配を否定すべきだと話しています。この話は表面的には理にかなっていますが、旧勢力を否定するためには、自分自身を着実に修めなければなりません。自分を修めず、自分の漏れを探さずに妨害されないことばかりに意識が向いてしまうのは、正念ではなく法を実証することでもありません。このような同修は師父が説かれた、旧勢力の按配を否定する説法を偏って理解してしまったのではありませんか? 真相を伝え、人を救うことを正しく行えば、旧勢力は私たちの歩む道を阻むことができません。旧勢力の按配を否定することは、単に旧勢力の存在を認めない、と言えばできることではなく、人心と観念を放縦しても良いということではありません。すべての希望を、発正念と常人的な手法に託してはなりません。心性の向上を重んじなければ、発正念はただの形式でしかありません。
 
 私の個人的な理解ですが、発正念は内に向けて探すことに取って代わることはできず、いかなる常人的な手法も、たとえそれがいくら完璧であっても内に向けて探すことに代わることはできません。「心性が高ければ功もそれだけ高い、これは宇宙の絶対の真理である」(『法輪佛法大圓満法』) 漏れを見つけたとき、それを捨てることは非常につらいことですが、これは修煉の基本原則です。今回の神韻チケット販売では、全体的な向上が必要とされており、海外の同修は、内に向けて探すことを必ず重視すべきです。
 
2011年04月14日


(English:http://www.clearwisdom.net/html/articles/2011/4/13/124372.html
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