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良いこと、悪いこと(二)

(明慧日本)同じ法を修めているのに、自分の関はなぜこんなに乗り越えにくいのか? 学法を通じて、同修が関を乗り越えた経験をそのまま、まねて同じようにするのは役に立たないと分かりました。同修は心性、次元がそこまで到達できてからの行いですが、それを学んでからの行いは求める心で、執着心です。
 
 病業を乗り越えた同修の話ですが、同修は病業に数日間苦しめられ、一番苦しいとき、師父に加持をいただきたいと思い線香を立てようとしました。その時、同修は師父の肖像を見てびっくりしました。師父は厳しいお顔で同修を見ておられました。同修はすぐ自分が間違ったと分かり、心から大法の要求のとおり自分を修め、師父にご心配はかけないと思いました。結果、数日も経たないうちに体は完全に回復しました。
 
 ある同修は「他の同修は明慧ネットの紹介のとおり発正念をして効果がありましたが、私はなぜないのでしょうか」と話しています。
 
 師父はこの方面に関して『洪吟』の「人覚之分」でこのようにおっしゃいました。「人とは何か、情慾身に満つ。神とは何か、人心存する無し。佛とは何か、善徳巨く在り。道とは何か、清靜として真人」 さまざまな関の中で、私たちは根本的に常人の良いこと、悪いことに関する見方を変えるべきです。心性を大法の中で向上させなければならず、師父に解決を求めてはなりません。
 
 自分の修煉の状態に合わせてみれば、病業がやってきて、体が苦しい時、その難から早く抜け出そうとしていました。関を乗り越えて、正念が効いているとき、つまり体が楽になるとき嬉しく思います。根本的な問題は、やはり病業を悪いことと見なしています。だから病業がやってきたとき、早く取り除こうとします。心性が上がらないのに、どのように発正念して取り除くことができますか? 
 
 悪い事に遭ったら苦しく、良いことに出会ったら嬉しい、このような心理状態は常人と何の違いがありますか? 修煉者が問題を見るとき常人のように考えてはならず、その中から自分の心性を向上させるべきです。だからよいことであっても、悪いことであっても私たち修煉者に対しては全部、良いことなのです。
 
 個人の悟りですので、不足の部分は慈悲なる同修のご指摘をお願いします。
 
 (完)
 
2011年03月18日

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