日本明慧
■印刷版   

孤独に耐えて、執着を取り除く


文/中国の大法弟子

(明慧日本)私たちは修煉の中で、必ず孤独に耐えなければなりません。これは、私たちが修煉の過程で乗り越えるべき一つの関です。しかし、多くの同修は自分も含めて、この一点をとてもおろそかにしています。
 
 私たちの地区には集団学法グループがいくつもあります。ある同修は、この集団学法に参加したのは、この環境を利用して、自分の向上を果たすためではなく、自分ひとりで暇をもてあましているからです。そこで、いくつかの学法グループに参加している同修もいます。これらの同修は、集団学法のグループでトラブルに遭っても、内に向かって探そうとしません。同修の執着を聞いてあげたり、自分の不満を同修に訴えたりして、集団学法の環境を自分の孤独を慰めるための場所としています。
 
 着実に修めている同修は、このような集団学法の環境で学法すると、心がむしゃくしゃして、後で数日間、調整が必要となります。しかし、着実に修めていない同修は、参加してとても喜んでいます。表面的には修煉しているように見えますが、実は着実に修めていません。したがって、このような集団学法グループにはよくトラブルが発生します。聞いたところによると、このような状況になり、迫害されたグループが3グループあり、迫害はされなくても、病業の現象が出た同修が何人もいます。このような状況は正しいのでしょうか? 集団学法によってともに向上すべきなのに、かえって、お互いの間にトラブルが発生し、魔難が大きくなってしまいました。
 
 今回の迫害は旧勢力の大法弟子に対する迫害で、人の人に対する迫害ではありません。旧勢力は全面的に漏れなく調べています。もし、私たちが着実に修めていなければ、旧勢力の按排から逃れることは困難になります。
 
 もちろん、集団学法に参加すべきでないと言っているわけではありません。ある同修は、同修と交流することで自分の孤独な心を慰めようと思っているのです。
 
 私にもこのような状況がよくあります。法を暗記する時、なぜこんなに難しいのでしょうか。ある同修に電話をして尋ねます。「あなたならどうしますか?」 また自分1人で家にいて退屈した時、そもそも時間を大切にして、三つのことをすべきですが、同修と交流するとの言い訳で、同修を訪ねたりします。1人でも完成できる大法の仕事を、どうしても同修と一緒に行おうとします。それで孤独を慰め、大法の仕事も行っていると喜んでいるのです。私はこのような人の方式で、この関を乗り越えようとしていました。
 
 修煉は難しく、厳粛なことです。年明けに、私の周囲の2人の同修が亡くなり、本当に心を痛めています。その中の1人を私は知っています。私が思うには、彼女は賑やかなことが好きで、着実に修めていない状態でした。師父は私たちに多くの人を救うよう要求されていますが、私たちが自らをよく修めていなければ、どのようにさらに多くの人を救うことができるのでしょうか。多く学法する、内に向かって探す、着実に自分を修める、三つのことを確実に行う、これこそが私たちのやるべきことです。
 
 これは私個人の認識であり、次元が限られているため、不足の部分は同修の慈悲なるご指摘をお願いします。 
 
2011年02月26日

■関連文章
執着を放下し、天地が開ける
病業の中で執着を無くし 妨害を排除する
病業の反応から、内に向けて探すことについて語る
根本的な執着をなくすことについて
根本的な執着を取り除き、大法弟子の使命を全うする
病業の魔難の中、深く執着を探した経歴(二)
情に対する執着を捨て去る
孤独な環境の中でどのように修めるか
家族みなが法輪大法の恩恵を受けている
同修を助けるのに人心はいらない