誠心誠意、学法する
文/中国の大法弟子
(明慧日本)以前、我々の地域の資料拠点の同修は明慧ネットに載った学法に関する交流文章を集めて冊子にし、他の同修たちに提供していました。再度これらの文章を読み終えた後、自分の学法状況と比べて、驚きました。今まで何年も学法してきましたが、まったく心に入っていなかったのです。修煉になかなか精進できないのも当然です。交流文章の中の同修たちが、法の中で法理を学ぶのを見て、とても羨ましく思いました。自分はなぜ出来ないのでしょうか? 真剣に学法して、同修の交流文章を読んでいても、やはり自分には実力がないと感じてしまいます。真相を伝える方面でも、同修たちのようにうまくいきません。
学法チームでは、私は同修たちと交流し、同時に慈悲なる師父に悟りを開かせていただいています。自分はただ表面だけを修煉していて、法が心の中に入っておらず、本当に自分が悟ったわけではないと師父が教えてくださったことに私はすぐに気づきました。
私は自分の内に向かって探し始めました。私は学法するとき、ただ毎日決まった量だけ勉強していて、しかし勉強した内容は言えませんでした。学法するとき、何かあれば本を置き、また読もうとすれば、先ほどどこまで読んでいたのか、それすら分からなくなることが時々ありました。私は小さい頃に母から聞いた物語を思い出しました。ある農民が観音さまにお参りに行くとき、途中で雨が降り出しました。その農民は、耕作のときに使ったバケツがまだ畑に置きっぱなしで、持ち帰るのを忘れたと思いました。お参りから帰ってきて畑に行くと、そこにおいてあったバケツの下には線香の灰がありました、それは彼が観音様の前で火をつけた線香と同じものでした。観音様は彼の線香を拒否したのです。なぜなら、彼の線香には真心がこめられていなかったからです。
このような法が心に入らない状況を変えようと私は決心しました。学法する前は発正念して、学法の邪魔をするすべての邪悪のものや要因を排除し、すべての精神を学法に注ぎました。一字一句を心の中に入れ、心で理解し、一字一句を読んだら自分が何を感じたかを考えました。また、もし学法するときに意識が別の所にいったならば、読み直しました。時々一句を何度も読み直すこともありました。第四講を読み終えるのに、なんと4時間もかかりました(いつもは1時間で読み終えます)。一講を読み終えただけで、私は法の中の内包が本当に少しだけ見えました。ただ真剣に一講を読み終えただけで、なぜこのように感じることが出来たかを私は分かっています。
他の精進している同修たちは、三つのことがうまく出来たときは、いつも学法がしっかりしていると話します。師父は経文の中で、弟子たちにもっとたくさん学法し、しっかりと学法するように何度も強調しておられます。今、私は学法の重要性を感じ取ることが出来ました。修煉はとても厳粛なことです。法を得るにはそれを邪魔するものがとても多いのです。最近、私は学法する時間がないと感じ、学法するときに神聖な感じや磁石同士が引き合う感じなどがしなくなっていました。何かの物質が私と法の間にあり、法と自分を隔てているような感じがしていました。私はそれらを排除するよう発正念をしました。このような日が何日か続いたある日、発正念をしているとき、歯車を包んでいた布がどこかに飛んでいった光景を見ました。再び学法すると、あの神聖で、学法するときに感じる喜びや、新鮮な感覚がまた戻ってきました。
個人の悟りですので、正しくない所は指摘をお願いします。
2011年06月24日
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