日本明慧
■印刷版   

執着には大小なし

文/中国の大法弟子

 

私は、毎日学法をして発正念を行なっています。時には、疲れたと感じているときは学法をせずに、ネットでゲームで遊んでいました。最初のころは、特に問題があるとは思いませんでした。時々遊んでいるだけなので、執着心でもなければ、勝敗にこだわっているわけでもないので、時間があるときのみ遊んでいます。しかし、ゲーム遊びは、遊べば遊ぶほど遊びたくなり、脳裏にはゲームのことでいっぱいになりました。自分は修煉者であることを自覚していたので、どんなことに対しても執着してはいけない、と思いました。そして、私はゲームソフトを削除しました。しかし退屈なときは、再びゲームで遊んでいました。このように繰り返していました。

このことは、表向きでは大きな問題がないように見えますが、実は、その背後に「情」という執着心が見え隠れしていました。「情」は、空虚を感じ、退屈を感じていたから、ゲームで遊ばせようとし、遊ばないと我慢できなくなり、遊ばないと辛く感じるのです。これは自分が「情」によって左右されているのではありませんか? 

そこで私は悟ったのですが、自分が小さな執着心と見ていた執着心を簡単に見てはいけません。常人のものに執着すれば、小さなこと、小さなものであっても、修煉者にとって厳粛に対処しなければなりません。決して軽く見てはならず、なぜなら常人のものに執着すると、常人の迷いの中に落ちてしまい、知らず知らずのうちに次元が落ちてしまいます。ですから、執着心は大小に関係なく、小さければなお発見し難く、重視できなくなります。常人の次元のものを執着するのであれば、常人の次元にいるということになります。常人の次元には良いものがなく、迷わずに悟りましょう。常人のすべてを放下して、心の中に『真善忍』と大法をしっかり覚え、師に随って返本帰真しましょう。

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/7/25/执著无大小-244401.html)
関連文章