日本明慧
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トラブルの中で内に向けて探し、人心を取り除く(三) 嫉妬心を取り除く
師父は転法輪の中で、嫉妬心について非常に強く重く説法をなさいました。師父の説法の中で、私はこの心があまりにも汚いと気付いたので、なんとしてもそれを取り除かなければいけないと思いました。しかし私は修煉を通して嫉妬心を取り除いたわけではありませんでした。私は自分自身の嫉妬心と向き合う勇気がなく、嫉妬心はあまりにも汚いもので、自分の中にあるべきでないと思うに留まっていました。一方で私は、まさか自分にこのような心は無いだろうと思っていました。しかしトラブルの中で、私は自分の嫉妬心がどれほど強いかを気付かされました。もっとも突出した現れの一つとして、私は同修Aさんが責任者になったことを知らされた後、Aさんの名前を見るたび、気分が非常に悪くなりました。最初、私はこれを嫉妬心ではないと考えていました。自分の得られないものを得た時、人は嫉妬心を生じさせると私は思っていました。私は協調人になりたいと思っていませんでした。以前、同修は私が協調人になるよう推薦しましたが、私はもし自分が協調人になれば、努力しなければならず、同時に自分には協調人になる能力がないと思っていたので断っていました。なぜ私がAさんに嫉妬することがあるのでしょうか。
また、私はもう一人の同修Bさんに対しても嫉妬心を抱くようになりました。長年のお付き合いの中で、私はBさんのことを基本的に口数の少ない、たいした能力も無い人だと思っていました。しかしある日、別の協調人が私に、Bさんにある方面での権限を増やすことを知らせてきました。それを聞いた私は、ただちに気分が良くないと感じました。私は薄々、これが嫉妬心だと気付いたので、私はそれを否定し、表面では同意しました。しかも、いかに自分は寛容さを持っているのか、いかに自分は人を認めてあげられるのかを誇示するため、口では良い返事をしました。しかし心の中では、常にこの状況を嫌だと思う要素が残っていました。Bさんの積極的な活躍を見るたび、特に同集Aさんと同集Bさんの協調がうまくいっているとき、同修Bさんが何を言っても同修Aさんが常に絶賛し、受け入れるのを見るたび、私の気分は良くありませんでした。ひどい時には、二人の名前を見ると、頭の中がブーンと鳴り始め、血の流れも早くなり、頭そのものが悪い物質によって、埋め尽くされているように感じました。
私はこの状態が良くないと思い、薄々、嫉妬心が原因だと感じていましたが、それを認める勇気はありませんでした。これほど悪いものを、なぜ私が持っているのだろうかと思いました。ある日私は、この心を直視すべきだと思い、これが嫉妬心であると認めました。すると、私はようやく心が楽になりました。再び法をもって自分の内に向けて探してみると、これは嫉妬心そのものだと気付きました。さらに私はこの嫉妬心のため、自分より時間がある同修に嫉妬したり、同修に法を実証することを多くさせたくないと思う嫉妬心にまで発展していること、自分は人より能力があり、法を実証することは自分がやるべきだと思っており、嫉妬心が生じていることに気付きました。一度でもこの嫉妬心を自分のものだと認めてしまえば、それによって理性的でない状態に陥ってしまします。
邪悪な考えに気付いた後、私は再び、同修の名前を見て不快に感じた時、これは嫉妬心だ、これは決して私ではないと自分自身に言い聞かせ、さらに法を学び発正念をする中でそれらを取り除きました。少しずつ心の中の不公平感も薄くなっていきました。ある日私は、同修の名前を見た時、また少しだけ不快な気持ちが現れてきましたが、しかしそれより強い気持ちとして、「同修は本当に素晴らしい。文章が本当によくできている」と、同修を絶賛する気持ちが現れてきました。もう少しすればこの嫉妬心は取り除けると、私はわかりました。なぜなら私は積極的にそれを取り除こうとしているからです。
顕示心と自分を実証する心を取り除く
私はプロジェクトの初期メンバーであり、このプロジェクトチームの中で、最も困難な時期を同修たちと共に乗り越えてきたと言えるので、今日までプロジェクトが存続できたのは、自分の多大なる努力のたまものだと思っていました。しかし、私はこのような考えを持つに至る中で、新たな執着を抱き始めました。それが原因で、私の中でその他の人心も膨らんでいきました。顕示心と自分自身を実証する心は、私の中でふたつの突出したものでした。潜在意識の中で私は、「自分は偉い、自分は人よりうまくできる」と思い、さらに長期にわたって法を暗記する過程を通して、思わず法に対する自分の理解は人より良くできていると思うようになりました。この心が、自分自身の顕示心であると気付いたとしても、それを排斥しようとしなければ修煉とはいえません。
ある日私の意見がまた受け入れられなかった時、私は理性を失うほど怒り出しました。ある同修が私に「内に向けて探すように」と何度も言ってくれました。その日一日、私はずっと「なぜ自分の意見が受け入れられないのでしょうか。私はどのような心構えのもと、意見を出したのでしょうか」と自分自身の心構えを分析した時、突然理解しました。それは顕示心と自分自身を実証する心によるものでした。大法弟子として、この世に来た本来の願望は師が法を正すことを手伝うためであり、法が受難している時に正念を持って法を実証するためです。しかし、私はそうではありませんでした。私は意見を出す時、何を考えていたのでしょうか。私は文章の中の問題が発見されていないと気付いた時、潜在意識の中で「これほど明らかな問題が誰にも気付かれないのはどういう事だ」と考え、人の問題を指摘するとか、人の粗探しをするため、または「自分は同修より強い、自分が偉い」ということを証明するため、ひいては「自分の見解はプロジェクトに対して非常に有利だ、自分の話は非常に良くできている」と考えていました。私は一日中この考えに執着して「自分はすばらしい。人より出来ている。誰もが気付いていない問題に私は気付いている」と考えていました。
このような汚い心に気づいた私は、内に向けて探し、自分の意見が採用されないことに納得しました。なぜならこのような悪い考えを抱き、自分を実証しようとする心を持って文章を直したとしても、それは純粋な状態と言えるでしょうか。たとえこの空間ではその意見が良いものであったとしても、他空間ではきっと私の提案は黒くて暗いものだと思いました。このようなものを出したとしても衆生は救えません。かえって衆生が救われることを妨害してしまい、悪いことをすることになってしまうのではないでしょうか。
もう一つの方面から言えば、修煉者の道はすべて師父が按排されたものです。どんな小さな問題でも師父が見ておられます。法を実証するというこれほどの大事件において、もし私の意見が本当に有利ならば、なぜ採用されないのでしょうか。同じ修煉法門の弟子が、このことを左右することができるのでしょうか。できません。本当の原因は、同修が私の意見を採用しないのではなく、師父が採用させないからです。目的は私がこのトラブルの中でこの人心に気付き、それを取り除いて向上させるためです。その後、文章の審査の際に意見を出す時、私は自分の心構え、どんな心構えで問題を考え、どういう出発点で意見を出しているのかを見直すようになりました。正しくないところは必ず取り除かなければなりません。
(続く)
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