日本明慧
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明慧ネットの物語(五)
文/海外の大法弟子
真相が中国全土に広がる
明慧ネットは、中国と海外の法輪功修煉者、特に中共の圧力の真っ只中にいる中国の法輪功修煉者たちへの、正しい方向性に基づいた交流の場となりました。明慧ネットの知名度は海外と中国の大法弟子の努力を通して、世の人々に広がりました。さらに重要なことは、李洪志先生の説法と全ての文章は明慧ネットを通して正式に発表されるのです。デマが流され、世間で迫害が行われるこの残酷な環境のなかで、中国の修煉者に師父の経文を得るための信頼できるルートをつくることができました。
大法弟子Cさんは「1999年に迫害が始まる前、地元では多くの大法弟子が、何名かの大法弟子から『北京へ陳情に行く事は間違っている。法を乱している行為だ』と言われました。さらに多くの偽の経文が出まわっていたため、一部の大法弟子は偽経文を見て『北京に行くべきではないと書いてある』と指摘していました。しかし2000年9月に、明慧編集部が『厳粛な教誨――先生の最近の講話より』を発表しました。この文章を通して多くの大法弟子は、これまで良く出来ていなかったため、これからは法を実証しなければいけないとの認識を持つことができるようになりました。また不法に拘禁されて釈放されたあと、自分がまずやらなければいけないと思ったことは、明慧ネットを見ることでした。封鎖を突破して明慧ネットを見た時の心情は表現しがたいものです。その当時はまだ、ネット封鎖を突破するソフトウェアはありませんでしたが、時々プロキシ(翻訳者注:ここでは、ネット封鎖を突破する手法のことを言っている)を通して、数十分かかってようやく明慧ネットに繋がるというケースは少なくありませんでした」と話してくれました。
大法弟子Dさんは「明慧ネットが、私たちに時空のギャップを突破する交流の場を提供してくださったからこそ、私達は適時に師父の新経文を見ることができました。ですからどれほどに大変な日であっても、正法の進展とともに今日までやってきました。明慧ネットは、私が最も大変な試練を乗り越えるのを助けてくれました。この10年の間私は、明慧ネットに掲載されている真相資料をダウンロードして印刷し、中共のデマ狂言にだまされている中国人に資料を配布していました。人々に真相を知らせなければいけません」と話してくれました。
大法弟子Aさんは「私達の地区は2000年3月から正式に明慧編集部と連絡がとれるようになりました。当時私達がはじめて明慧編集部からのメールをいただいた時、同修の親切なメールの内容を見て、そばにいる何名かの同修は涙を流しました。その時から私達の心は明慧ネットの同修たちと繋がりました。このことは全ての明慧編集部と連絡をとっている中国の大法弟子が、同じように感じているのではないかと思います。また、2000年9月、私達が明慧ネットから『江沢民氏の逃れられない歴史的責任』などの文章2編をダウンロードしました。私たちはそれを数百万部印刷し、ただちに中国全省の全ての街に配りました。これを通して中国における真相を伝えにおいて、新たな歴史的転換点をもたらすことができました」と話してくれました。
当初から明慧ネットと共に法を実証してきた中国の大法弟子は、上述の2人の同修の話に、とても共感を感じることでしょう。明慧ネットは人々に法輪功の真相と、事実を知る窓口を提供し、同時に中国共産党による迫害の情報を大量に発表しています。
明慧ネットが伝わる中で、中共は常に悪役を演じてきました。例えば迫害の初期、中共は何度も明慧ネットに言及しました。中共は明慧ネットに言及する前、たくさんの虚言を弄しましたがが、中国人は中共の報道を逆の意味で捉えることを学びました。これは中国人にとって、既に身についた技のようなもので、そのため610弁公室に勤める多くの人すら明慧ネットを見るようになり、見た後に転職し始めました。さらに一部の警官は、ネット封鎖を突破するソフトウェアを使って、明慧ネットを閲覧するようになりました。
ある中国の大法弟子は「私が不当に北京の労働教養所に拘禁されていた時、ある警官がネット封鎖を突破するソフトウェアで明慧ネットを閲覧しているのがわかりました。そして大法弟子を迫害した警官がブラックリストとして明慧ネットに掲載されているのを見て、その警官は大法弟子を迫害することをやめて、他の仕事に転職しました」と話してくれました。
2002年、ある地区では1999年に発足し、続いてきた大規模資料站が破壊されました。以下は明慧ネットが中国の修煉者のために用意した、ある農村出身の大法弟子3名の修煉体験談です。この農村の大法弟子の投稿によると「毎日が過ぎ去っていく中で、明慧ネットにアクセスしていた同修も不当に逮捕され、私達はまったく明慧ネットが見ることができなくなりました。外の世界で正法の進展がどこまできたのか、師父の新経文も見ることができませんでした。皆はまるで盲人のように苦痛の中で耐えていました。その後、ある外部からやってきた同修と会うことができるようになり、その同修も非常にあせっていたので、その同修のもとで私たちは、再びネットにアクセスし、資料站をもつようになりました。もし私に農作業をやらせるのであれば慣れているのですが、マウスを持つのはまるで、すべりやすい玉を握っているように手の指すらうまく動かすことができませんでした。同修が私に知識を教えるときは頭が真っ白で、とくにパソコン関係の話はまるでちんぷんかんぷんでした。」
常人の生活の中での苦難を克服したこの大法弟子は、師父のご加持と同修の助けのもとで、なんとかパソコンを扱うことができるようになりました。彼は一人で明慧ネットにアクセスし、ファイルをダウンロードしプリンターを修理したり、さまざまなソフトウェアを使いこなすなど、明慧ネットのパートナーとして情報を発信するようになりました。
この大法弟子の体験は、多くの年配者、もしくはパソコンなどの教育を受けたことのない中国の大法弟子の典型例と言えます。
またある中国本土の大法弟子は、明慧編集部に送った手紙の中で次のように書いていました。
「私が明慧ネットを見始めた時期は比較的に遅いのです。私は2005年10月になってから初めて、明慧ネットの存在に気付きました。これまで明慧ネットは自分にとって知っているようで知らないもの、知っているにもかかわらず手の届かないものでした。神秘的で神聖な存在でした。いつか早く明慧ネットが見ることができたら、と切に思っていました。しかし自分はパソコンについて何も知らないし、触ったことがありません。高度な技術を勉強しなければパソコンは使えないと思っていました。しかし、私は同修に何度も助けてもらい、励ましていただいたため、私はキーボードを買って文字の入力方法を学び、さらにパソコンの基本的な操作を勉強しました。また、ネット封鎖を突破するソフトウェアの使い方などを学び、ようやく長年望んでいた明慧ネットを見ることができるようになりました」
この中国の大法弟子のような体験は、たくさんあります。もともとのパソコンの技術や、パソコン教育の有無にかかわらず、多くの中国の大法弟子は、師父と大法に対する信念により、明慧ネットを見ることができるようになりました。たくさんの資料站がつくられる中で、多くの中国の大法弟子が中国における明慧ネットの発信源となり、資料を印刷して編集し、さらにそれを配布するようになりました。そのため師父が明慧ネットで発表された説法は、一夜にして中国のいたるところに伝わるようになりました。
(続く)
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